2005-10-08[n年前へ]
■メキシコシティ
成田へ行く前に、10mm 程度のレンズを買っておくか、EOS 5Dを買っておけば良かった。中年のイージー・ライダー風珍走団が驚くくらいたくさんいて、沼津みたい。これは何かの走行会? ちょっと光化学スモッグ気味で目が疲れながら、ウォームビズについて色々調べる。ちなみに、大学時代に受けた教育は「…地球温暖化?来るべき氷河期に備えるためには悪くないかも?アルベド効果だってよくわからないんだし」という感じだったような。
2005-11-17[n年前へ]
■「はてブコメント」に陽を当てる
「はてブコメントの暴力性 」を読んで、「はてブコメント」に陽を当ててみたい、と考える。もっと、はてなブックマークのコメントを表に引き出してみれば、少し感じが違うかもしれないのだから。…それが、いいのか悪いのかわからないけれど。
2005-11-21[n年前へ]
■「よくわかりません」
> 「問題」の指摘されているモノにたいして「そーだよねそーだよね」と> いうのは簡単ですが、そこに陽を当てようとする「優しさ」も「らしい」> ですし、そのモノの可能性を「信じる」ところも「らしい」です。 さてさて、「優しい」のかどうかは…自分ではよくわからないです。なぜかというと、「陽を当てれば」良いものは生き残っていくだろうし、悪いものは消えていくだろう、と考えることもあります。それが、対象物に対して「優しい」のかどうかはよくわかりません。 また、「悪くないものになるためには、残っていかなければならないんだ」「それは、(それを残していきたいとか、なくしていきたいとか願い考える)当事者や周り次第なんだから」良くなるも悪くなるも(当事者や周りの)人次第だ、という風に「信じる」のは「優しい」かどうかは…よくわかりません。案外、「信じる」って厳しいんじゃないのかな、と思うこともあります。 例えば、いわゆる「(男の子に対する)母親の優しさ」ではないですね。「(男の子に対する)父親の優しさ(=厳しさ)」に似ているかもしれない、と思ったりもします。もしかしたら、「(女の子に対する)母親の優しさ(=厳しさ)」とも似ているのかもしれません。「こども」は一人で歩いていく力を身につけるべきだ、と考えるか、他者が守ろうとするか、という感じの違いがそこにはあったりするのかもしれません。 さて、誰しも…いえ違いました、少なくとも私は「最後の審判」が来るその日まで、自分が思う「良い」とか「悪い」とを考えながらジタバタするしかないのかもしれません。
2005-12-29[n年前へ]
■「記録」によって「記憶」をなくした'70年以降生まれ
昨日に続き、破り取ってポケットに入れたページの一つが、坪内祐三と福田和也の「これでいいのだ」
ポストモダン以前の'70年生まれくらいの人たちまでは、まだ「記憶」というものがわかるけど、それ以降に生まれた人たちにはわからない。 本来「記憶」はどんどん書き換えられていくものだけど、過去がビデオに残されていたら、それはいつまでも懐かしい「記憶」にならず、単なる「記録」のままでしょ。今の32〜33歳を境にした上下で、ものの感じ方に断絶があるのは、そのへんも一つの理由だと思うな。
2006-01-18[n年前へ]
■「Tech総研新レポーター誕生秘話」
「爆笑!号泣?Tech総研公認☆新レポーター誕生秘話」という記事が公開されています。こんな話の場合、「自分が喋った言葉の中から、最後に記事として残った言葉」以外を書こうとは思いません。
記事として残った言葉の中で「面白いなぁ」と思うことは、こんなことです。
例えば、タイトルに「号泣?」という言葉が入っているけれど、そんな言葉がなぜ登場しているのかは記事本文からは全くわかりません。あるいは、冒頭の画像を眺めてみると、「(ダウンタウンの)松本兄はタジタジ、平林純@hirax.netはホロリ…」なんて書いてあります。けれど、そんなフレーズが書かれた理由だって、本文記事中には全く登場しません。何を意味しているのか、全く意味がわからないであろうフレーズです。
けれど、記事本文には登場しないにも関わらず、タイトルや画像中のキャッチフレーズにそんな言葉が残っているわけです。記事本文には書かれていない、けれどなぜか記事の書き手が残した言葉をこそ眺めて頂けたなら、とてもうれしく思います。