hirax.net::Keywords::「優しい」のブログ



2005-05-05[n年前へ]

「何でもやればできる、という言葉」 

 ところで、 「未来予想図」は多数決で想像したり決めたりするものではなく、「未来は実際に作りだしてしまえば良いもの」ということを考えるとき、例えば「技術者と作業員」の

技術者とは、大勢の人たちが無理だと思っていたり、どれだけ試行錯誤してもうまくいかないような(例えばコンピュータに関連する)技術的な難題を、人並み外れた凄まじい問題解決能力で解決し、たちどころに目的を達成してしまう能力を持つ特殊な人たちのこと。多くの場合、置換不可能である。誰でも勉強すればなれる訳ではない。
登 大遊@筑波大学情報学類の SoftEther VPN 日記 - コンピュータ・エンジニアのような言葉を連想してしまう。「人並み外れた凄まじい問題解決能力でたちどころに目的を達成してしまう」ような人であれば、「未来を実際に作りだしてしまう」こともすぐにできそうだ。しかし、そんなことはなかなかできることでもなさそうだけれど…とも思ったりする。

 以前、ペトロ三木が「ジェネジャン!」の何かの回で、他のタレント出演者たちに向かって
(芸能界で成功するのは才能のある一部の人間だけだろ)(才能あるヤツが)「何でもやればできる」みたいな発言をするから、ありもしない才能を信じる奴らが増えるんだよ。おまえらは社会に対して無責任なんだよ。
So-net blog:ペトロ三木のブログ:ペトロ三木から重大発表!!日テレの「世代密林」はしゃべり場のパクリ!!いうようなことを言っていたが、その言葉が頭の中にプカプカ浮かんでくる。「ぼくは別に何かの才能があるわけじゃない。誰でもみんなやろうと思えばできると思う」と語る堂本光一に、ペトロ三木が「アンタのルックスは(みんながみんな持っているもののはない)立派な才能だろ」とツッコんでいたのを思い出す。(社会に対して無責任とは思わないが)誰でも「何でもやればできる」わけではないよなぁ、と思ったりもする。そしてまた、「(何かを) - やろう - と努力をちゃんとできること」も「才能の一つ」なのかも、と思ったりもする。あついは、「誰でもみんなやろうと思えばできる」と信じる力こそが、欠かせない才能の一つなのかもしれない、とも思う。もしかしたら、それは「夢」を見たり、「夢」を見させたりする能力なのかもしれない。

 登 大遊氏は尋常でない才能の持ち主だし、伊藤直也氏だってそれは同じだ。彼らの言葉を「なるほど」と熟読しながら、ふと我に返ると「12人の怒れる男」の正義を追求するヘンリー・フォンダではなく、人の意見に激しく左右されてしまう「12人の優しい日本人」になる自分がいる。彼らの言葉を眺めていると「…_|‾|○」という気持ちにもなったりするけれど、そんなorzな気分は「アラン・ケイの直筆サイン(The best way to predict the future is to invent it !)入り高座扇」ででも吹き飛ばすことにしてみようか。

2005-06-22[n年前へ]

立体顔表情ロボット 

Untitled 表情豊かに喋る顔の様子を立体表示してくれる、というロボットです。表情が豊かで自然なので、人に与える印象が優しい、というわけです。…しかし、結果として、このロボットを見た人が受ける印象は恐怖以外の何者でもありません。「リングの貞子」もビックリのまるでホラー映画です。というわけで、見かけた場所は東京ビッグサイトで開催中の産業用VR展示会で。


2005-08-25[n年前へ]

「クールビズ」と「大便所1個と小便所2個の法則」 

平林 純@「hirax.net」の科学と技術と男と女 Tech総研ブログ「クールビズ」と「大便所1個と小便所2個の法則」を書きました。
 なんと、環境に優しい話を書こうクールビズについて考え始めたら、見えてきたのは何とビックリ「トイレのヒミツ!?」だった!?という「できるかな?」的な記事になってしまいました。というわけで、この続きは秋口辺り?の「できるかな?」へ続けることにしましょうか。


2005-11-21[n年前へ]

「よくわかりません」 

> 「問題」の指摘されているモノにたいして「そーだよねそーだよね」と> いうのは簡単ですが、そこに陽を当てようとする「優しさ」も「らしい」> ですし、そのモノの可能性を「信じる」ところも「らしい」です。 さてさて、「優しい」のかどうかは…自分ではよくわからないです。なぜかというと、「陽を当てれば」良いものは生き残っていくだろうし、悪いものは消えていくだろう、と考えることもあります。それが、対象物に対して「優しい」のかどうかはよくわかりません。 また、「悪くないものになるためには、残っていかなければならないんだ」「それは、(それを残していきたいとか、なくしていきたいとか願い考える)当事者や周り次第なんだから」良くなるも悪くなるも(当事者や周りの)人次第だ、という風に「信じる」のは「優しい」かどうかは…よくわかりません。案外、「信じる」って厳しいんじゃないのかな、と思うこともあります。 例えば、いわゆる「(男の子に対する)母親の優しさ」ではないですね。「(男の子に対する)父親の優しさ(=厳しさ)」に似ているかもしれない、と思ったりもします。もしかしたら、「(女の子に対する)母親の優しさ(=厳しさ)」とも似ているのかもしれません。「こども」は一人で歩いていく力を身につけるべきだ、と考えるか、他者が守ろうとするか、という感じの違いがそこにはあったりするのかもしれません。 さて、誰しも…いえ違いました、少なくとも私は「最後の審判」が来るその日まで、自分が思う「良い」とか「悪い」とを考えながらジタバタするしかないのかもしれません。

2007-09-12[n年前へ]

「理系」と「希望」 

『理系ってどういう人かなぁ?』って聞いたら
 ずっと海を眺めている人の荷物に目がいく。ビニール袋と紙袋をまとめ、その荷物の近くで海を眺めてる。紙袋の一番上にはくまのぬいぐるみが入ってる。 
 最終回の仮題は「希望」です。これまで「満足・価値・魅力・選択肢・感情・技術革新」といったことを聞いてきたつもりですが、その最後は、やはり「希望」です。
 希望という文字を見ると、いつも「希ガス…」という変な文末が目に浮かぶ。もう少し言い換えれば、いつも「希ガス…」という変な文末を連想するような「気がする」…。
 ただ、どんな道にせよ、共通するのは、途中で必ず迷うということだ。
 迷うの語源を検索すると、迷う=真酔うだと書いてある。そして、「迷える者は、道を訊かない」という言葉を読む。
 科学者たちは魂の力も電気や磁力とおんなじようなものであるという、まことしとやかなおとぎばなしをつくります。
 どんな道でも人は途中で必ず迷い、そして、迷える者は道を訊かないのだとしたら、道を聞こうとする人は道に迷っていない人で、地を聞かない人は迷っている人だということなのだろうか。それとも、単にその瞬間に迷っていない人だということなのだろうか。
 大切なのは、わからないということへのタフネスを身につけることに精力を注ぐことだと私は思う。
 そんな論理を考えようとしても、わからないことばかりだ。迷える者は道を訊かないという論理と同じフレイズを繰り返すなら、わからない時には人は訊くことをしないのだろうか。
 海辺には色んな人たちが住んでいる。松林の中に場所を作っている人もいるし、廃車を家にしている人もいる。
 この小さな町は、それでも人に優しい。雨をしのぐことができる「私有地でない場所」から人を排除することはない。人が日々を過ごす場所から、その人を移動させることもない。
 どちらに進んで行けば良いのか、わからない時がきっとあるだろう。
 年が明けようとする頃、週末、一日二度見ていた人が亡くなった。何年も見つ続けた景色、何年もとり続けた景色、何年も「今日見た景色」として針続けた景色の中で人が亡くなった。
十五で世の中をわかっちまったようなヤツラから見れば 馬鹿げた話さ
それが、最良のキャリア教育であると、私は信じている。



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