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2009-04-22[n年前へ]

コミュニケーションにおける「高コンテキスト文化」と「低コンテキスト文化」 

 「異文化コミュニケーション」という研修を受けたことがある。その時、自分自身がどのような考え方をし・どのように判断・行動するタイプであるか、また、自分の周囲は平均的にどのような集団か、日本は他諸国は…というようなことを診断シートから判断してみたり、参加型の実習を通して学んだりした。

 いくつもの面白く、かつ、納得させられることを教えられたが、コミュニケーションで「言葉自体が占める割合・重要性」「コンテクスト(背景・文脈など)に依存する割合」を考えた、「低コンテクスト文化」と「高コンテクスト文化」という2つの文化の違いについても、実に興味深いことのひとつだった。(エドワード・T. ホール著「文化を超えて 」や「沈黙のことば 」参照のこと)

 もちろん、実際にはそのふたつの文化に2極化するわけでなく、その2つの文化の中間的な場所のどこかに自分、あるいは他者はいるわけである。ちなみに、「高コンテキスト文化」から「低コンテキスト文化」まで、高コンテキスト順に(つまり、高コンテキスト→低コンテキストという順番で)各国を並べると、以下のようになる。

  1. 日本
  2. 韓国
  3. サウジアラビア
  4. 中国
  5. インドネシア
  6. タイ
  7. フランス
  8. イタリア
  9. イギリス
  10. チェコ
  11. アメリカ
  12. オランダ
  13. ドイツ
  14. スイス

 比較として、「言葉」を重要視するのが、低コンテキスト文化であるから、低コンテキスト文化では”説明責任”が重視される。すなわち、コミュニケーションでは「話し手(書き手)/聞き手(読み手)」のうち、話し手(書き手)の責任が大きい。その逆に、状況(文脈)の中で「コミュニケーション・理解」が行われる高コンテキスト文化では、聞き手(読み手)が責任を負う。この違いは、とても大きく、とても重要だ。

 たとえば日本のような高コンテキスト文化では、聞き手(読み手)は話し手(書き手)の言わんとするメッセージを(言葉・表現に曖昧さが多くとも)解釈しなければならない。逆に、低コンテキスト文化では、誰もが理解できるようにメッセージを話し手(書き手)が明確なメッセージ・言葉を話し(書き)、伝える必要がある。

 自分は、コミュニケーションにおける「高コンテキスト文化」と「低コンテキスト文化」で、どこに属しているか考えてみると面白いと思う。中には、自分が話し手(書き手)の場合には「高コンテキスト文化」=相手に内容を読み取る責任があると考え、自分が聞き手(読み手)の場合には「低コンテキスト文化」=相手に逐一説明する責任がある、という、トンデモ的コンテキスト文化に属していたりするかもしれない。

2009-04-23[n年前へ]

「高コンテキスト文化」と「低コンテキスト文化」の違い「箇条書き」 

 「高コンテキスト文化」と「低コンテキスト文化」が持つ典型的な特徴を並べたリストがなかなかに面白い。「高コンテキスト文化」と「低コンテキスト文化」の違い・特徴をリスト化したものは、派生したものがたくさん生まれている。たとえば、下に画像として貼り付けた箇条書きと、下に文章で箇条書きにしたものは、やはり少し違っている。

Low Context Communication

  1. Absolute values
  2. Need for precision in language - words carry explict meaning
  3. Responsibility based on contract
  4. Agreements written don and records kept
  5. Well-timed interruptions that move the conversation forward accepted
  6. Decision-making ideally logical
  7. Uncomfortable with silence(indicates a breakdown of communication)

High Context Communication

  1. Relative values
  2. Tolerance of verbal ambiguity(non-verbal and coded communication)
  3. Responsibility based on general agreement
  4. Written agreements flexible according to circumstances
  5. Interruptions considered rude, particularly when made by a junior
  6. Decision-making allowing for feelings
  7. Not uncomfortable with silence(can be communicative)
(エドワード・T. ホール著「文化を超えて 」や「沈黙のことば 」参照)

 こんな箇条書きを眺め、「(二つの文化の違いを整理した)各項目のどちらに対応するか」を確認することで、自分自身や自分の周囲の人、あるいは「集団」が、「高コンテキスト文化」と「低コンテキスト文化」のどちらのタイプに属するか、あるいはどちらの傾向が強いか、を比較・自覚してみると面白いと思う。そうすることで、コミュニケーションの中で起こる問題が「あぁ、なるほど。これは必然的に起こることなんだな」と理解できたり、その対策をとることができたりもするかもしれない。

Low and High Context Communication






2009-04-24[n年前へ]

「リファクタリング・ウェットウェア ―達人プログラマーの思考法と学習法」を読む 

 「リファクタリング・ウェットウェア ―達人プログラマーの思考法と学習法 」を読んだ。 著者は、「アジャイルプラクティス 達人プログラマに学ぶ現場開発者の習慣 」「プログラミングRuby 第2版 言語編 」「プログラミングRuby 第2版 ライブラリ編 」といった本の著者の一人である、Andy Huntである。本の内容は、"Pragmatic Thinking and Learning "という原題がよく表している。つまり、「とても役に立つ”物事への思考方法と学習方法”」が書かれている。ただし、"Pragmatic"=「現実に役に立つ」でもあると同時に、本書を読んでいると時に、"Pragmatic"という言葉を「語用論的」という風にも捉えたくなる。本書のタイトルを、「状況(コンテキスト)を踏まえた思考方法と学習方法」というようにも捉えたくなる。それくらいに、この本では「コンテキスト」を意識した考え方というものの重要性が書かれている。

 ビギナーにはコンテキストに依存しないルールが必要だが、達人はコンテキストに依存した直観を使う

p.30
 コンテキストから切り離された客観性-すなわちコンテキストから切り離された後に客観的になろうとすること-には危険がつきものです。

p.31

 そして、さらに、物事を考える際に「自分の考え方における偏り=認知バイアス」を意識することの重要性などが説明されていくことで、「問題に応じた適切な解決の仕方・問題解決の方法、そして、そういうことができるようになる学習方法」が解説されていくのである。

 この本には、「自分自身の考え方・行動の仕方を知り、より適切な考え方・行動の仕方ができるようにするための方法」が書かれている。ひとことで言えば、そういう本である。そして、その中で「コンテキスト」「認知バイアス」といったキーワードが重要語句として、登場しているのである。

 ここ何日か、コミュニケーションにおける「高コンテキスト文化」と「低コンテキスト文化」 「高コンテキスト文化」と「低コンテキスト文化」の違い「箇条書き」 と、コンテキストについて書いた。特に、日本人が「高コンテキスト文化」のトップ1に挙げられるような特徴・認知バイアスを持つ、ということを書いてみた。

 それは、本書の感想を書くためには、まず私たち自身の「考え方・行動の仕方や偏り」をわかった上で、この本を読んだ方が・感想を書いた方が良い・そうしなければいけない、と感じたからである。「コンテキスト依存が強い私たち」が「コンテキストの重要さ」を語る本を読む場合には、私たち自身の思考・行動のパターンがコンテキスト依存度が高い(という認知バイアスを持つ)ことを意識して読むことが必要である。

 自分自身や自分の周囲の人、あるいは「集団」が、「高コンテキスト文化」と「低コンテキスト文化」のどちらのタイプに属するか、あるいはどちらの傾向が強いか、を比較・自覚してみると面白いと思う。そうすることで、コミュニケーションの中で起こる問題が「あぁ、なるほど。これは必然的に起こることなんだな」と理解できたり、その対策をとることができたりもするかもしれない。

「高コンテキスト文化」と「低コンテキスト文化」の違い「箇条書き」

 私たちが持つ認知や考え方の傾向を念頭に置いた上で、それと違う文化の人が書いた本書を読むと、きっと役に立つと思う。 「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」 という。すなわち、「背景・状況=コンテキスト」を知り、自分自身を知れば、成功する確率がとても高まる。この本を読むときには、この本で書かれていること=「自分自身の考え方・行動の仕方の傾向」を知った上で、読んでみると良いと思う。「自分自身の考え方・行動の仕方の傾向」を知った上で読んだ方が良い、と思う。

2011-10-14[n年前へ]

「ローカリゼーション技術」は「相手」に合わせつつ「自分」を表す「コミニュケーション技術」 

 『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか? 世界で売れる商品の異文化対応力 』を読んだ。本書を読んだきっかけと読んだ後に考えたことについてはまた別に書く。商品を「(地域・世代・時代といったさまざまなものに)適応させる」という「ローカライズ(時にはパーソナライズ)」するという本に見え、実は「コミュニケーション」を知るための本でもあった。「ローカリゼーション技術」は「相手」に合わせながら自分を表すコミニュケーション技術でもある。

 質の高いフィードバックは、相手の期待度と近似値でこそ返ってくる。話が通じる相手であると見せないといけない。(中略)期待通りであることを演じないといけない。
 ローカリゼーションは、相手のいわばミニマムの期待値をクリアすることなんです。「こういつ、俺たちのこと、何も分かっていない」とは思われないようにする。そうすると、(中略)質の高いフィードバックを得られるわけです。
 しかし、「共感」を得るためのもっともユニバーサルなツールは、論理的なコンセプトであることを忘れてはいけない。語る相手の頭の中が見えるようなプレゼンに人は納得し、そこで獲得した「共感」は根強く印象に残る。

 コミニュケーションの語源、communication = communis ( common ≒ 共通に)+ munitare(行き交うことができるようにする)というものを振り返りながら、この本を読むと「腹持ちするたくさんの具体例」と「私たち日本人に向けてわかりやすくローカライズされたロジック」で、たくさんの「見る(知る)力・理解する力・コミニュケーションする力」ことを手に入れることができる、かもしれない。

「ローカリゼーションマップ」と「相手を知り、自らを知り、変える・変えないを選ぶ」 

 安西洋之・中林鉄太郎氏に「ローカリゼーション」について話を伺いました。『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか? 世界で売れる商品の異文化対応力 』の著者である両氏に聞いたのは、地域・国あるいは、その時代変化、さらには各個人に合わせて、「どう商品を変えていくか」という話です。

 人の頭の中をのぞき見ることはできない。しかし、異文化市場のお客さんに製品を売り込んでいくためには、その地域のお客さんの思考回路をじっくりと観察するぐらいの気持ちで顧客思考を貫く必要がある。

INTRODUCTION 「グローバル時代に欠かせないローカリゼーションの視点」
 異文化の人々に製品やサービスを受け入れてもらうためには、ローカリゼーション(現地化)が必要になる。(中略)地域や文化が違うとロジックが変わってくる。ユーザーの思考プロセスも異なってくる。

INTRODUCTION 「グローバル時代に欠かせないローカリゼーションの視点」

 本書の最後の方で、「コンテクスト(背景文脈)への依存量」と「市場規模」という2軸で作られる平面上に「商品(製品)」を配置(ポジショニング)させた「ローカリゼーションマップ」というものが出てきます。これがブレーンストーミング・思考整理のためにとても役立つように思われたので、自分の手で清書し直してみました。それが、下図です(この図は本書中では”ローカリゼーションマップ”と”ローカリゼーション動的図”という2種のグラフに分けられているものを、ひとつのポジショニングマップへと合成したものです)。

 たとえば、「ルイ・ビトン」の商品というものは、その製品(企業)文化・歴史とともに価値が認められ(そういった歴史・文化と言った”コンテクスト”に強く依存しており)、そのコンテクスト理解が世界的に広まり売れています(グローバルである)。
 また、基本的にスマートフォンなどは、現在のところ、各地域文化といったコンテクストへの依存は比較的少ないが、グローバルに売れ始めている。
 あるいは、洗濯機などは地域によって使い方・商品に対する捉え方が大きく異なっており(各地域毎のコンテクスト依存が大きく)、各地域におけるローカル市場ごとの製品となっている、という具合です。

 このローカリゼーションマップで面白いのは、「コンテクスト依存」の量を示した横軸が、同時に「商品更新頻度」すなわち「変化の速さ」という時間軸にもなっていることです。たとえば、ルイ・ビトンの製品があまりにも変化してしまったら、そこにあるコンテクスト(価値があると認められているコンテクスト)からズレてしまうがゆえに商品が姿を変えていく速さは遅く、一方で、スマートフォンは刻々と追加されていく新機能の量にこそ価値があると認められ、だからこそ変化が非常に速い(次々と新製品を出し続けなければならない)、ということがわかりやすく見て取れるのです。

 両氏から話を聞き、感じさせられたのはこのようなことです。ローカリゼーション(究極にはパーソナリゼーション)というのは、「どう商品を変えていくか」という話です。それは、自分(たち)が向かおうとする相手に応じて「どこを変える・どこを変えない」ということを決める、ということです。つまり、相手を見つつ・自分の価値をどこに見い出すかということです。さらに端的に言ってしまえば、それは「相手を知り」「自らを知る」ということになります。

 「変えないこと」に価値を持つ「老舗」もあれば、ドッグイヤーで走り続けることに価値があるモノ(今のところは、変わり続けなければならないモノ)もあります。どこに価値があるか・それを見いだし、自らのどこに”変わっていくこと”を置き、どういうことに”変わらずにいること”を選ぶか…これは企業・商品だけでなく、人についてもあてはまる話でしょう。(関連記事:「ローカリゼーション技術」は「相手」に合わせなつつ「自分」を表す「コミニュケーション技術」

 「世界は同じになった」ユートピアに近づいている感を与えやすい台詞だ。さまざまな文化の魅力を維持しながら、地域特有の閉鎖性を破って自由なコミニュケーションがどれる風景があって欲しいという願いからくる、魅力的な言葉だと思う。それゆえ、あまり浮かれすぎてはいけない。必ず毒があり、しっぺ返しがある。

最終節 「パーソナリゼーションとの関係」
 

「ローカリゼーションマップ」と「相手を知り、自らを知り、変える・変えないを選ぶ」








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