2004-01-29[n年前へ]
■11ぴきのネコ
演劇に興味を持ったのは、少し前。少し、と言ってもそれは二十年近く前のこと。春休み近くの高校で、演劇部が上演していた井上ひさしの「11ぴきのネコ」を見て、とても感動したのが演劇に興味を持つきっかけだったと思う。 いつも、合唱部やブラスバンド部の音楽に負けないくらい大きく、いつも屋上から「あめんぼ赤いな…」という声を響かせていた演劇部の上演会を観に行ったのだった。
北の空の大きな星あの星の下には幸せな場所があるそんな場所を11ぴきのネコが探しに行って…幸せな場所を見つけたその後は…、という話を見ていて、少し、いや正直に言えば、とても感動して少し泣きそうになったのだった。
その演劇部を(次の年に)率いていたのが、今ではGaucheの作者としても有名な川合さんだった。だから、私はGaucheという文字を見るたびに、あるいはSchemeという文字を見るたびに、高校時代に校舎の中で見た「11ぴきのネコ」を思い出して、なんだか少し切なくなってしまう。Gaucheという音を聞くと、一人何処かへ旅立った「11匹目のネコ」の姿が何故か目に浮かんでしまう。
2008-12-29[n年前へ]
■現在望み得る最上かつ最良の○×上達法
文章上達法のコツを一番的確に書いた文章はは、井上ひさし 「現在望み得る最上かつ最良の文章上達法」である。・・・と、名文を書く人たちがみな口を揃え自著に書く。
井上ひさしの「現在望み得る最上かつ最良の文章上達法(死ぬのがこわくなくなる薬―エッセイ集)」は、たった3ページほどの文章なのに、密度が実に高い。何しろ、「現在望み得る最上かつ最良の文章上達法」について、いきなり一行で答えを冒頭に書いてしまう。
「丸谷才一の『文章読本』を読め」そして、「文章を手当たり次第読み、そして、それを真似する作業をせよ」という内容が書かれ、最後の一文はこう締めくくられる。
つまり文章上達法とはいかに本を読むかに極まるのである。
どんな分野でも「技術」は欠かせない・・・だろうと思う。それが、体を使うことであっても、頭を使うことであっても、あるいは多くのことがそうであるように、体も頭も使うことであったとしても、「技術」を必要としないものはないはずだ。・・・根拠無しにそう思う。
そういった技術に関して、「現在望み得る最上かつ最良の○×上達法」というものを考えるとき、井上ひさしの「現在望み得る最上かつ最良の文章上達法」は、意外に適用できることが多いのではないのだろうか、と思う。だから、というわけではないが、この文章を一度読んでみて損はないと思う。もちろん、丸谷才一の『文章読本』も一緒に「あわせて読みたい(読まなければならない)」ということになるのだが、それは「(名文を読む)楽しみが増える」ということであるから、これもまた得であっても決して損ではないのである。
2009-01-05[n年前へ]
■「技法と思想」
「この作品はわからない」という感想を抱いたときは、「わからないのは、作家のせいよりも、自分のせいではないか」と、まず自分の能力に疑いを持つことが大切です。
井上ひさし 「野田秀樹の三大技法」
2009-01-06[n年前へ]
■「モノを作る」「モノを必要な場所に運ぶ」
「なるほど。資本主義とは確かにそういうものなのだな」と思わされたのは、岩井克人の「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」という言葉だった。
井上ひさしが、闇米とアメリカ煙草の仲買で儲けていた母親を批難したところ、こう言い返されたという。
紀伊国屋文左衛門をみてごらん、三井や三菱をみてごらん。みんな、モノやカネを動かして儲けた連中じゃないか。モノをつくるより、モノを動かす方が儲かるという世の中の仕組みに文句を言いなさい。この言葉も、「なるほど、確かにそうだったのかもしれない」と感じさせられる言葉だ。地方の農家も闇米で潤ったかもしれないが、それ以上に煙草を欲しがる田舎の名士と、米を必要とする都会の人々の間で流通業を行う方が大きな利益を得ることができたのかもしれない。
こういった資本主義を表現した「ひとこと」を集めて、読んでみたいと思う。そして、そこから現れてくるものを眺めてみたい、とも思う。
2009-01-14[n年前へ]
■「東大安田講堂事件」と「劇作家」
1968年に起きた「東大安田講堂事件」を読んで、ふと鴻上尚史の「ヘルメットをかぶった君に会いたい」 を連想した。答えがない問いを前にして、その問いを振り払うことができない感じというか、トイレに行ったはずなのに残尿感が強く残り続けている夢の中のような、そんな面持ちになった。
そして、さらに、井上ひさしが「死ぬのがこわくなくなる薬―エッセイ集〈8〉 (中公文庫)」に書いたこんな文章を思い起こした。
"わたしには"<現在という時間・空間に、どのような形で住み込むのが、もっともよいのか>という切ない想いが彼の魂の底で暴れ狂っているようにおもわれます。さまざまな時・空間を並べて繋げて結び合わせ、作家自身がその時・空間を生きながら、現在という時・空間にどう住み込むのがよいかを、野田さんは必死に探し求めているようです。
井上ひさし 「野田秀樹の三大技法」
もしかしたら、野田秀樹に限らずとも、ほとんどの作家が作るものは、そんなものが多いのではないだろうか。少なくとも、鴻上尚史が書く戯曲はまさにそのようなものだ。世界を映し出す舞台、そんな世界の中でどう生きるか、どう立ち続けるか、そんなことをずっと書き続けているように思う。・・・そういうものを書く劇作者は、たぶん、とても多い。
どうも作者というものは、自分のために薬を調合する人種のようである。
井上ひさし 「死ぬのがこわくなくなる薬」