hirax.net::Keywords::「旅路」のブログ



2004-07-03[n年前へ]

青春18きっぷは定義式 

 今年の春の青春18切符のコピー

       √a = 18旅路(ルート)の中では、人はいつも18(age)である。
に対してのツッコミ
ちなみにこの公式には”落とし穴”があり、普通に解くと「a=324」と答えが出てしまいます。誰がどのような旅をしても心の中ではいつも18歳、と伝えたいのでしょうか。
を見る。

√a = 18  それは、"="の定義次第に違いない。このコピーの作者は実は数式処理系に堪能で、"="は、いわゆる等号"=="ではなく、代入の"="かもしれない。つまり、「√aというものは全て18が代入される」という手順を意味しているというのも自然かもしれない。
 そして、さらにこの式は"√"という演算子(もしくは関数)を定義する式であって、(例えばMathematicaなら)この式は
root(a_) := 18
なんていう内容を書いてある、とも自然に読むことができるだろう。すると、これは「ルートをとるとどんなaも全て18になる」という定義だ。もっと素直に言い換えれば、それはコピーそのままの「旅路(ルート)の中では、人は誰でも18(age)になる」である。そういう処理を行わせるものこそが「旅路(ルート)」というものなんだ、と高らかに定義・宣言する式である。

girls=evil そして、(「女の子=悪」の証明風に言うのなら)「人のルート(root=根底にあるもの)はそんな18才の頃のようなものだ」とさらに想像してみるのはどうだろうか。青春18きっぷのポスターに書かれた小さな式は「旅は人を18歳の頃の気分にさせる。そして、それこそが人の根底にあるものなんだ」という言葉だと勝手に想像してみるのだって面白いはずだ。

 青春18きっぷの公式から"a=324"なんてなんだか少しツマラナイ答えを導いてしまうのではなくて、もっと色んな想像をして色んな答えを導いてみるのも良いのじゃないかな、と思う。答えが(自分の知識の範疇で想像できる)一つだけなんていうのは「青春18きっぷ」には似合わない。もっと、色んな期待とともに線路の先を眺めた方が、きっと面白いことを見つけられるに違いない。

2007-09-15[n年前へ]

「線路」と「人生の方程式」 

 朝早くは晴れていたけれど、10時を過ぎる頃には雨と霧で包まれる。高原特有の、白い霧が風に早く運ばれていく。

√a = 18 旅路(ルート)の中では、人はいつも18(age)である。
 青春18切符をポケットに入れて、京都と東京の間を11時間かけてよく移動した。
河から海へ船が出て行く。後ろの港には船が帰っていく。風の流れがそのまま波を動かして、その波の上に立っている人たちがいる。風が吹くともっと潮の匂いが強くなる。
 安いPCでグリッド・システムを組むと、どうしても巨大なハードディスク領域ができあがる。そんな領域を有効活用しようと思うと、Gmailみたいなものになるのだろうか、と昔考えた。
 この方程式で使われている"="は、いわゆる等号"=="ではなく、代入の"="かもしれません。
 "=="が"="に変化した途端に、「人生の方程式」が「人生の定義式」に変わる。自らは決め得ない未知数を条件に応じて解くという行為が、能動的に何かを決めていくということに変わる。
 素直に言い換えれば、「旅路(Route)の中では、人は誰でも18(Age)になる」というコピー文そのままに変身します。さらに言い換えるなら、「すべての人を18歳の頃に戻す」ものが「旅路(Route)」なんだと、声高らかに宣言する力強い定義式なのかもしれません。
 荒木経惟が撮る青春18切符が好きだった。あるビルの回転ドアを出るとき、その回転ドアの対角線上には、ビルへ入っていく荒木経惟がいた。
 自分や他人のつまらない考えに沿った「道(Route)」の上を走り続けるのも、なんだかつまらなく感じられることがあります。そんな時には、そんなルートを外して色んなものを眺めてみるのも、少しだけは、良いのかもしれません。 
 "=="が"="に変化した時、 if 文で使われる「こんな場合には」という等号が、定義という意志と行動に変わる。
「決められたレール」は無いほうがいい。  1995年 「青春18切符」冬

2007-12-26[n年前へ]

我入道 

 いつも生活している街並みから、ぽっかり浮かんで不思議にズレているような場所がある。 毎日歩く道先にあるはずなのに、普段はなぜか辿り着けない。 けれど、何かのタイミングが合ったときに、自然とそういった場所に辿り着いてしまうのである。

 そんな場所の一つが、我入道にある大山巌の別荘跡だ。 我入道海岸の端に海に面して急峻な小山がある。 牛が伏せているように見えることから名付けられた、牛臥山の中央海沿いに大山巌の別荘はあった。 牛臥山の隅を切り通して別荘跡に行く道は封鎖されているため、そこにたどり着くためには海側から行くことしかできない。 かといって、牛臥山の海側斜面も断崖絶壁が続いているから、海沿いを歩いていくこともできない。少なくとも、普段は、そこは岩を波が洗っているような場所だから海沿いを歩いていくのは不可能だ。

 しかし、干潮時に牛臥山の崖下に行くと、その岸壁の足下に浜が現れる。 そして、岸壁と波の間にある狭い浜辺道を進んでいくと、別荘跡にまで歩いていくことができるようになる。 大山巌たちが海を眺めた別荘跡、彼らが歩いた石垣や階段跡を散策することができる。 三方を急峻な山に囲まれ、残りは海が広がり、そして現在は誰もいない場所は不思議な空間そのものだ。

 潮が満ちてくると街に戻れなくなってしまうから、そんな陸の孤島を散策することができる時間は、それほど長くはない。 潮が満ちてくる時間には、みるみる間に波が高くなってくる。そして、岸壁と波の間にある狭い浜辺が消えていく速度はとても速い。 いつも生活している街と不思議な空間を繋ぐ道があっという間に消えていくのも、何だか「らしい」感じだ。

 我入道という地名は、船に乗った日蓮上人が「ここが我が入る道である」と言って上陸したことに由来する、という。 日蓮上人と違う私たちは、自分たちが進む道を簡単に決めることなどできない。 考えて時に迷い、時には何も考えずに、ただ歩く。 そして、そのルートが「自分が歩いた道」「我入道」になっていくだけのように思う。 我入道の先にある別荘跡まで、偶然繋がる浜道の景色を思い出しながら、ふとそんなことを考える。


拡大地図を表示

我入道我入道我入道我入道我入道我入道我入道我入道








■Powered by yagm.net