2009-01-24[n年前へ]
■斎藤美奈子の「本の本」
本の本―書評集1994-2007 人はパンのみにて生きるにあらず、というけれど「生きることを支えるパン以外のもの」の一つが本だと思う。本を読んでいくことで感じること・得られることはとても多い。
本を読むことで得られるものはとても多いけれど、その一方、本自体の数もとても多い。だから、本屋や図書館でどの本手に取ろうか・・・と思い悩んでしまう。そんな時、誰かの書評があると、あまり悩まずにその本を手に取り読むことになる。
そういえば、私は斎藤美奈子の書評を頼りにして、そしてその書評を念頭に置きながら本を読むことが多い。
本を読む行為は基本的に孤独です。しかし、そこに一篇の書評が加わると、世界は何倍にも膨らみます。同じ本を読んだはずなのに、あまりの受け取り方の違いに驚いたり、その本の新しい価値を発見したり、ときには書評のおかげではじめて意味がわかったり。自分とは違う感覚で、自分よりも圧倒的に多い読書量にもとづいた書評は、自分の読書とは異なる見方を教えてくれる。確かに、書評は読書を立体的に眺めることを可能にしてくれる。
(中略)
もしこういってよければ、書評は「読書を立体的にする」のです。
斎藤美奈子 「本の本」
上に引用した文章は、斎藤美奈子の「本の本―書評集1994-2007」の最後に書かれた節だ。この本は単行本サイズなのに6cmの厚さを持っている。そして、厚さに比例したたくさんの本への書評が書かれている。それは、まるで、たくさんの本が詰まっていて、親切丁寧で、だけどサイズは小さな魅力的な図書館のようだ
2009-01-25[n年前へ]
■久世光彦の書評
本人がどのように考えているかはわからないけれども、斎藤美奈子の書に関する雑文は女性的だと思う。そして、久世光彦のそれは男性的だと思う。女性的・男性的と言っても、それは、たとえば男性的=マッチョというような意味ではなくて、むしろそれとは全く逆の意味だ。つまり、斎藤美奈子は鋭く強く、久世光彦の文章は繊細で後悔交じりの匂いがする。
人のことは言えないと、いつも自分を戒めながら、ついつい面白くて<書評>を書いて十年になる。人のことを書くのは面白いことなのだ。会ったこともないのに、その人と親しくなれたような気がする。ほんの少しだが、その人の肌に触れたようにも思う。だから私は、解説はしない。筋も書かない。私は<書評>で、その人に熱心に話しかけるだけだ。ーそれでもどこかで、余計なお世話をやいているような、後ろめたい気持ちが残るので困る。
久世光彦 「美の死―ぼくの感傷的読書 」
2009-01-27[n年前へ]
■斎藤美奈子「話を聞かない男、地図が読めない女」
斎藤美奈子の「趣味は読書。」 の188頁、「話を聞かない男、地図が読めない女」に対しての感想から。
この手の本は、思想的には必ず保守で、論旨は必ず荒唐無稽だ。もちろん、だから売れるのである。人々の価値観は概して保守的だし、正しい科学の知識もお呼びじゃない。彼らが望んでいるのは「あなたの性格はこう」「あなたの人間観家はこれでうまくゆく」とだれかに力強く断言してもらうことだけなのだ。で、ある人は霊能者のもとへ走り、ある人は占いに凝り、ある人は疑似科学に救いを求める。20世紀が科学の時代だったなんて、信じられない。勝利したのは、科学の装いを凝らした迷信だけだったんじゃない?
斎藤美奈子 「趣味は読書。」 p.188 「話を聞かない男、地図が読めない女」
2009-03-18[n年前へ]
■ちょっとした発言やいろんなアプローチ
他の人が書いた文章を読んで、他の人の視点からの眺めを見て、本を見たくなることがある。
相川藍の”BOOK”「活躍する女性たちの本」が、椿姫彩菜の「わたし、男子校出身です。 」に対して、書いた文章を読むと、この本を読みたくなる。
世の中にはいろんなアプローチの優しさがあるんだなと思う。ちょっとした発言や懐の深さが、どれだけ他人を救うことか。この本には、個性豊かな人間である私たちが、少しずつ理解し合いながら互いの悩みを軽減し、幸せに生きるためのヒントがつまっている。
2010-03-29[n年前へ]
■飲んでいることを忘れたいから酒を飲むという「星の王子さま」に登場する問答を。
角田光代の「酔いがさめたら、うちに帰ろう。 」(鴨志田穣)への書評から。
なぜ酒を飲むのか、飲んでいることを忘れたいからだという、「星の王子さま」に登場する問答を幾度も思い浮かべた。
いってはいけない場所は避けて生きる。それが正論だが、人生は正論にはおさまらない。生きることはかくも理不尽である。それでもこの小説が絶望に彩られていないのは、「帰りたい」、そう切望する場所を、理不尽な「僕」が諦(あきら)めることをしないからだろう。
「酔いがさめたら、うちに帰ろう。 」の「僕」は、とても理不尽で不器用で、その理不尽で不器用な「僕」が生まれてからの話、そして、「彼女」と描く-西原理恵子-のもとに、やはり限りなく不器用に「帰る」までの話である。「帰る」ことができた一節には、「帰りたい」と切望したその場所の大きさと魅力が透けて見えてくる。