hirax.net::Keywords::「橋本治」のブログ



2009-02-21[n年前へ]

「キュリー夫人伝」と「有吉佐和子」 

 「キュリー夫人伝 」に感動し(たとえば、「有吉佐和子 (新潮日本文学アルバム)  p.17)理科の道を志そうとしたこともあった女性の話を、少しばかり書こうと思う。

 女性の名前は、有吉佐和子だ。(理科の道を志そうとしたからこそ書き上げることができた)「複合汚染」を書き、「華岡清州の妻」を書き、そして、「悪女について」を書いた作家である。

 彼女は自伝「作家の自伝 (109)有吉佐和子 」中でこう書いている。

 女には限らないけれど、仕事に打ち込んだ場合、「才」とか鋭い神経とかいうものは、あれば必ず邪魔なものだ。大成するとか、本当の意味での成功に必要なのは鈍根性だと私は思っているが(中略)

「先生たち」 p.26
 有吉佐和子は「才女」と呼ばれた。「才能」とは「可能性」でもある。そして、時に、「可能性」を多く与えられ、そして、鋭い神経を兼ね備える人たちがいる。そんな人は、有吉佐和子のような人たちを知っておいても良い。

 「有吉佐和子の世界 」という本がある。この中で、橋本治が書く「理性の時代に」という文章は、有吉佐和子のような人たち、いや、それ以外のすべての人が読むべき文章である。

 女たちは生まれ、育ち、そして学ぶ。学んだ彼女達はどこへ行くのだろうか?学んだ彼女たちは当然のように結婚し出産し、生活の中心に腰をそえ(あるいはそえざるをえなくなって)、主婦という没個性の中に沈んで行く。一体彼女達が身につけてしまった知性というものはどこに行くのであろうか?知性という窓を通してかつての日に見た可能性はどこに行くのだろうか?知性によって支えられた理性を、そうした理性を持った健全な人々を正当に評価してくれるような幸福な日常があるとは、私には思えない。そしてそうした幸福がたとえあったとしても、それならば、その”幸福”によって遮られる、かつての日にかいま見た漠然たる可能性の行く末は?
 たとえば、「キュリー夫人伝 」に感動し理科の道を志そうとしたりした女性たちは、きっと他にもたくさんいることだろう。「出口もないまま、本を読む習慣だけは青春の日に身につけてしまった彼女達」の一つの結晶として有吉佐和子が書いたものごとを通じ、橋本治が語る文章は、必見だと思う。
 そのことの前には、女性に関する一種混沌としか呼びようのない現実が登場する。これを抑えない限り、すべての女性に関する認識は偽りであり(中略)

P.116 橋本治 「理性の時代に」@「有吉佐和子の世界

2009-02-22[n年前へ]

「悪女」と「嘘」 

 ずっと昔、よく深夜の小平霊園で時間を過ごした。何人かで深夜にかくれんぼをしたり、飲んだ後、小平霊園の中を、瓶ビールを飲みながら歩いたりした。高校時代に夜を過ごした場所は、小平霊園と小金井公園と多磨霊園が多かった気がする。

 その小平霊園の一角で有吉佐和子は眠っている。その墓石を写した写真が「有吉佐和子 (新潮日本文学アルバム)」のp.95掲載されている。右上の写真は、その小平霊園の中を歩きながら撮影した写真だ。

 この本に橋本治が書いている「彼女の生きていた時代(p.97)」は本当に魅力的だ。

 逆境にめげずにひたすら前へ突き進んで行く意志の強い女を書かせたら、彼女の右へ出るものはいないだろう。しかし、それだけではないだろう。
 一人の女が、女としての論理を一貫させて生きようとした時、そこには必ず、世の中というものを作る男の論理との衝突が生まれる。その衝突を回避するために、女にとって”嘘”とか”沈黙”といったものは必須になる。
 橋本治の目を通して、有吉佐和子が書く「悪女」あるいは「悪女の嘘」を読むと、それらが本当に魅力的で、正確すぎるくらい正確なスケッチに見えてくる。そして、その「悪」や「嘘」が魅力的に見えてくるのが不思議だ。

 そんな「悪女」を有吉佐和子が描いた小説「悪女について 」について、有吉佐和子自身が書いている文章が、これまた良い。

2009-02-23[n年前へ]

有吉佐和子の「女」と「理性」 

 「有吉佐和子の世界 」中で、橋本治が書く「理性の時代に」より。

 男がいて女がいる。その男を何かが歪ませ、その何かが女を不幸にする。有吉佐和子の基本的な認識はこうであろうと思われる。だから彼女は、うかつには動かない。有吉佐和子の揺るぎのなさは、この正確なる認識をする彼女の理性によると思われる。
 だから、有吉佐和子の中で、女は聡いし、揺るぎがない・と同時に、女は激しく揺れ動く。有吉佐和子が才女であるということは、そうした世の中全体の関係性を踏まえて女を描き、そして描かれた女が決して邪悪にはならないところにある。”女流”と呼ばれる作家は、えてしてこれをやるのだ、邪悪という開き直りを。
 有吉佐和子は、女の中の”女”を描いて、決して邪悪には陥らない。それを読む女達に「もっともだ」と思わせる”何か”を書くのである。
 理性的でありながら、それが理性的であると気づかれないことによって”理性”として評価されない女達に、この理性の時代に、実は膨大な理性がないがしろにされて放置されているのだ。

2009-03-15[n年前へ]

「わかる」ということ 

 橋本治の『「わからない」という方法 (集英社新書) 』より。

 「わかる」とは、実のところ、「わからない」と「わかった」の間を結ぶ道筋を、地図に書くことなのである。「わかる」ばかりを性急に求める人は、地図を見ない人である。常にガイドを求めて、「ゴールまで連れて行け」と命令する人である。

2009-09-14[n年前へ]

「作る」と「時間」と「葛藤」と 

 橋本治の「人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書) 」の「産業は、人にどのような間違いをもたらすようになったか」から。

 「作る」という行為は、葛藤の中を進むことなのです。「ものを作る」という作業は葛藤を不可避として、葛藤とはまた、「時間」の別名でもあります。
 簡単な真理とは、「いいものは簡単に作れない」で、「時間をかけて作られたものは、それなりに”いいもの”になる」です。



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