hirax.net::Keywords::「歌詞」のブログ



2008-06-23[n年前へ]

列車の振動音・鼓動のような「リフレイン」 

 列車に乗っている時に聞く音のような、リフレインを持つ曲がある。たとえば、それは岡村孝子の「電車」だ。「電車」は、さならがらレールの繋ぎ目を台車が過ぎていく時に発する音のように、(サビ前の部分で)ギターがアルペジオを淡々と奏で続ける。そのリフレインに歌詞が重なることで、音を介して、通勤電車に立つ主人公たちが浮かび上がる。

誰もが自分の生き方を見つけて歩いてゆくけれど、 私は変わらずに私でいるしかできない。
岡村孝子 「電車」

 RADWIMPSの「オーダーメイド」も、何かの列車に乗っているかのように感じさせるリフレインを持っている曲だ。この曲の魅力的なリフレインは旋律ではなくて、2回目のAメロから刻み始められるリズムだ。間をおきつつ小刻みに続くドラムの音が、まるで、いくつかの車輪がレールの継ぎ目で音を立てているかのように響く。響くリズムに歌詞も相まって、時間軸に沿って進む長距離列車の姿が浮かび上がってくる、ように感じる。

 生まれる前の瞬間に、「人を作る誰か」が「どんな風になりたい?」と「僕」に訊く。「人を作る誰か」は、色んなことを次々と「僕」に訊く。

 「大事な心臓はさ、両胸につけてあげるからね」
 どんな風がいい?と尋ね続ける誰かに、「僕」は「何か足りない・欠けている」ことを次々と選んでいく。いつも「僕」は不完全な片側を、選んでいく。
 右側の心臓は要りません。僕に大切な人ができてそっと抱きしめる時初めて、二つの鼓動が胸の両側で鳴るのが、わかるように。

一人じゃどこか欠けてるように。
一人でなど生きてかないように。
 そして、「僕」は「人を作る誰か」に「どっかでお会いしたことありますか?」と最後に逆に問う。いつだったか、その「誰か」に会ったことがあるような気がして、「生まれる前」のさらに前だったか、あるいは「さらに後」なのか、「輪廻」か「デ・ジャヴ」か、「どっかで会ったことがある」気がして「僕」はその「誰か」に聞く。
どっかで、お会いしたことありますか?

 そういえば、「リフレイン」は「主だった旋律の前にそれと同等かそれより長い前語りを持つ楽曲の形式」を意味だという。けれど、「繰り返し・反復」を意味することも多い。小さなメロディが何度か繰り返されることを、意味することも多い。
 それは、まるでこの曲が歌う歌詞と小刻みに響くドラムの音が描き出す「不完全なものを繰り返し選択肢・回り続ける輪廻のような世界」を連想させる。

 「望み通りすべてが叶えられているでしょう? だから、涙に暮れるその顔を、ちゃんと見せてよ」
 「人を作る誰か」は誰だろう。それは、もしかしたらそこら中にいる誰かなんだろうか、とも思う。 PVを見ていると、さらにそんな気持ちが強くなる。
「だから、涙に暮れるその顔を、ちゃんと見せてよ。さぁ 誇らしげに見せてよ」
 「僕」が「人を作る誰か」になって、次の「僕」がまた「人を作る誰か」になり、そんな小さなリフレインが聞こえてくるような気がするこの曲は、「涙」や「誇り」や「望み」が混ざったスープのようなこの曲は、本当に素敵な曲だと思う。いいでしょう?

2008-09-04[n年前へ]

"worthless"と"priceless"とクライマックス 

 映画「ウォーターボーイズ」を見ていると、竹中直人が主人公に言う台詞の字幕に目を惹かれた。

So you make a fool outta yourself
Better than feeling worthless all your life
 "worthless"と"priceless"とは語呂は似ているのに、意味は正反対だ。"worthless"は「価値がない」で、"priceless"は「とても価値がある」だ。この英語の"priceless"という言葉に出会うたびに、頭の中で「?」マークが浮かんでくる。そして、"valueless"は「価値がない」で、"invaluable"だと、「とても価値がある」ときたものだから、ますます日本語の感覚と英語の意味とが、メビウスの輪のように捻れ絡んだ具合に感じられて、さらにわけがわからなくなる。

 ところで、「ウォーターボーイズ」の最後、主人公たちのシンクロ演技のシーンで流れるたくさんのBGMの中で、パフィーが歌う「愛のしるし」の歌詞には字幕がつけられている。 それは、この曲の歌詞が一種の台詞に、一種のメッセージにになっているからだろう。

To get a little stronger
I'm rowing away
In my broken boat
 こういった映画のクライマックスを見ていると感動する。 そして、眩しさと楽しさと、少しの寂寥感を感じる。 限りなく興奮する映画のクライマックス・頂点の先にも、主人公たちの人生は続く。 山頂を過ぎた先も、やはりまた道は続く。 だからこそ、こんな映画のクライマックスシーンに、いつも泣かされてしまう。

2009-02-09[n年前へ]

「”もし”と”もしも”の違い」で「もしも明日が」を論理的に読み解く 

 「もし」と「もしも」は、似ている言葉だけれど、違う言葉だ。たとえば、新明解国語辞典  (第3版 )の頁をめくってみると、一番目にあるのは「もし:将来起こりうることのひとつを取りあげて言うことを表す」というものだ。それに対し、「もしも」をひくと「もしも:”もし”を強めて言う言葉。特に起こってはならないことを予測して言う言葉(もしもの事(=万が一の事。特に死)」とある。確率的に考えれば、「もし」の方が「もしも」よりもずっと可能性が高い、という具合である。

 そんなことをしていた時、それなら、わらべが歌った「もしも明日が 」(下に貼り付けた動画)の歌詞の話になった。

もしも明日が 晴れならば…
もしも明日が 雨ならば…
もしも明日が 風ならば…
もしも季節が 変わったら…
 この歌詞を素直に聞くなら、明日が万が一にも「晴れ」でもなければ「雨」でもないし、「風が吹くこと」もない。明日は必ず、「風なく雪が降る日」や「曇り日」なのだろうか。また、それと同時に、この歌の中では季節も変わることがない、のである。

 だから、この歌の歌詞を素直に感じ取っていくと、「明日という日はない」という暗い言葉に聞こえてくる。「明日」という日がなければ、それは晴れにも雨にも風にもなりようがないわけである。そして、もちろん、季節も変わることがないということになる。

 「もし」と「もしも」の意味の違いを考えてみると、「もしも明日が」という曲がいかに暗く切なく哀しい曲であるかが見えてくるような気がする。

 「もしも明日が」は実に怖い曲なのである。



2009-09-30[n年前へ]

「開拓者」 

 日食なつこ「開拓者」

一般的に普通1分で歩く距離を、 3分4分かけて歩いてく人がいる。 1歩踏み出すたびに、その意味を考える。

2009-12-27[n年前へ]

「ドナドナ」と「コンドルは飛んでいく」 

 細見和之の「ポップミュージックで社会科 (理想の教室) 」が、とても奥深く面白く、まだまだはまっている。今日はまっていた部分は、「ドナドナ」という歌と、その歌詞が歌われた時代だ。「ある晴れた昼下がり 市場へつづく道・・・」と悲しげに歌われるあの、「ドナドナ」である。

 ドナドナは、1940年にが米国に移住してきたユダヤ人、アーロン・ツァイトリンが(東欧ユダヤ人の日常語であった)イディッシュ語で作詞し、ニューヨークの劇場で発表されたものだという。細見和之氏がイディッシュ語版を翻訳した一部を抜粋すると、このような歌詞になる。

荷車のうえに子牛が一頭
縄に縛られて横たわっている。
子牛がうめくと農夫が言う
いったい誰が子牛であれとお前に命じたのか。
お前だって鳥であることができたろうに。
ひとびとは哀れな子牛を縛りあげ
そして引きずっていって殺す。
翼を持つものなら空高く舞い上がり
誰の奴隷にもなりはしない。
 この子牛は、どう読んでも「人」である。日本語の歌詞より、ずっと辛く・苦しい歌だ。

 この歌が、(日本でほど知名度が高いわけではないが)一般的に知られ・歌われるようになったのは、1960年にこの曲が英訳されたジョーン・バエズのアルバムに収録されてからだという(そして、1960年代後半に日本で大ヒットした)。

 ジョーン・バエズの歌を聴いていたその頃の、日本の私たちは一体どのようなことを感じながら、どんなことをしながら、この歌詞を聴いていたのだろう。前回、

 その時代、あの時代、さまざまな時に流れ・歌われた曲を聴きながら、その時折を知る人たちの話を訊いててみたい、と思う。
と書いたが、この曲に関しても、やはりそう思う。

 私がこの歌詞を読んで、ふと思い出したのがサイモン&ガーファンクル が歌った「コンドルは飛んでいく」である。アンデスのフォルクローレの名曲に、ポール・サイモンが英語の歌詞をつけて、よく歌われるようになったあの「コンドルは飛んでいく」である。

地を這うカタツムリになるよりは、スズメになりたい。
もしなれるなら、心からそうなりたいと願う。
人は地面にしばりつけられ、
一番悲しい声を響かせている。
 この曲も同じ時代に歌われたからなのか、ポール・サイモンがやはり同じユダヤ系だからなのか、あるいは、単に悲しげなメロディとモチーフからに過ぎないのか、それとも普遍的な何かがこういった曲の底に流れているからなのか・・・理由はわからない。けれど、「ドナドナ」のメロディと(イディッシュ語版もしくは英語版)歌詞を眺めると、「コンドルは飛んでいく」を、私はふと連想してしまった。

 「ドナドナ」は、日本の小学校で音楽教育を受けた人ならば、多くの人が知っていると思う。人は、たとえば、あなたは、一体「ドナドナ」を聴いて、どんな風景を思い浮かべるだろう。



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