2005-02-19[n年前へ]
■『○×的センス』と「素晴らしい科学」
ちゃろん日記(仮)文体で遊んだときには、寺田寅彦の文章などを比較例に使ってみました。寺田寅彦と言えば、椿の花が落下するようすを描いた「思い出草(やこの件に関する科学論文)」が理研の庭の椿の花を実験材料にしていることは有名かもしれません。その理研が発行している 理研ニュース'05/1の河合隼雄・野依良治特集対談がとても面白く楽しめます。対談の中から、気になる一節をメモし始めると…、全文になってしまいそうですね。
「科学」と「論理」と「情緒」と「言葉(数式と日常語)」
(野依)自然科学者として、文化には4つの大きな要素があると思っています。ひとつは“科学”、それから“論理”、3番目が“情緒”、最後に“言葉”だろう…(河合)言葉の中で、一番はっきりしているのが数式なんですよね。日常語は、あいまいさを持っていますから、サイエンス(科学)はそれをできるだけ排除しようとする。できたことを説明し、記述する場合は数式といったものが強いのですが、新しいものを見つけていくときには、あいまいさの中に入っていかないと駄目なんです。「理系」と「文系」
(野依)日本の教育では比較的若いときから理科系・文科系を分けますが、私は亡国への道だと思っているのです。(河合)私も絶対に反対です。高等学校くらいの年齢で理科系・文科系なんていうのは、本当におかしいと思います。「人を疲れさせない・駄目にしない」
(野依)研究所も大学もそうですけれども、研究を通して人を育てることが大事であって、人を疲弊させてはいけないと思うんです。しかし今の研究所では、評価とか資金調達とかいろいろなものが導入されて、人を疲れさせています。これは研究者だけではなくて、事務方にもいえるわけですが。そういった研究所の職員をエンカレッジ(激励)するには、研究所全体の文化度を上げなければならないと思っています。さもなければ人間が駄目になります。「素晴らしい科学というのは、わかりやすい」
(野依)社会に自分たちがやっていることの意義を分かりやすく話すということは、大変大きな意味があると思います。素晴らしい科学というのは、やはり分かりやすいんです。
2005-05-05[n年前へ]
■「頭の中の妄想」と「証拠」
西村 肇氏の次の言葉を眺める。
本当の理科人間は理屈を言い争うディベートを好みません。どんな結論にも理屈はつけられるので、このようなコトバによる議論が、意味ある結論に導くとは思わないからです。理科人間の議論は一回で論戦を決着できる物証の提示…時折、頭の中の理屈は妄想に過ぎない、と思うことがある。頭の中の妄想に対して、その「正しさへの近さ・確からしさ」を決めるのは、人間(の頭)ではなくて、(自然科学で言うならば「自然」というような)物証なのだろうと思う。それが、(あえて理系・文系と二つに強引に分けるならば)「理科系」の素晴らしさ(同時につまらなさ)かもしれない、と思うことがある。
2005-06-06[n年前へ]
■どんな「腸内菌」になりたい?
走り書き2005から、「必読」シリーズを読む。森山氏の
で。僕はそれで食べて行かなくちゃいけないライターなわけだから「理系の人がどこを面白がっているかについて書く」ことが、どうすれば日銭に結びつくかを考えなければならない、ということですかね。という二年前の文章(及びその前後)に感銘を受ける。感銘のあまり、何回も繰り返し読んでみた。
そういえば、「2ちゃんねる研究」が終了した頃、「新聞のニュースインデックス」に関して、こんな感想を書いた。文体が気に入らないので、ちょっと変えてみるとこんな感じになる。
私は他人の褌は嫌いだ。他人が作ったニュースインデックスは少なくとも、他人のものに違いない。「他人の作ったニュースをたれ流しすることで商売したり」するのは実につまらないと思う。 もっとも、それが新聞社や記者のものかと問われれば、そもそも「そのニュースは誰のものか」ということを考えるべきだ、と思う。「他人の作った人生で商売をする」というのはどういうことなのか、もう少し考えて欲しい、と思う。 人間誰しも寄生虫なのだと思う。そんな寄生虫、あるいは、腸内菌にだって色々あるに違いない。どんな腸内菌になるかは、…その人次第だと思う。私は、話題の発端となったサイトは今回も読んでいない。だから、その、今日思ったことは、「『理系の人がどこを面白がっているかについて書く』ことが、どうすれば日銭に結びつくかを考えなければならない」という言葉から、「どんな腸内菌になるかは、その人次第」と思った時のことを思い出した、というだけである。
2005-07-02[n年前へ]
■理系といえば白衣…!?
少し前にJR品川のSTARBUCKSであった話だ。小さな円テーブルを前に座る私の正面には木村拓哉と生瀬勝久を足して2で割ったようなディレクター氏がいる。私の左横にはガレッジセールのゴリ似のAD氏がいて、ビデオ・カメラを私に向けて(カメラ・テストかなにかをして)いる。そして、すぐ右では真面目そうな女子高生が勉強をしている。女子高生はディレクター氏と同じ向きで座っているので、私の方に顔を向けていて、ディレクター氏からは顔が見えない。
ディレクター氏が「オッパイ星人」なんて言うたびにに、真面目そうな女子高生はイヤそうな視線を繰り返し繰り返し私に向ける。そのキツ〜イ視線は私でなくて木村拓哉氏(もしくは生瀬勝久氏)かゴリ氏に向けて欲しいなぁ、と私は神様にお願いをする。しかし、女子高生は(気弱そうな)私にだけそのキツイ目を向ける。あぁ、「弱い部分を攻める」のは戦略の基本鉄則だよなぁ、と思いながら私は女子高生から目をそらし続ける。
そして、話が終盤に入った頃、AD氏が聞く
AD: やっぱり、いつも白衣を着てるんですか?あぁ、この道は何度も通った気がする。この言葉は何度も聞いたことがある(他の定番パターンは「やっぱり、部屋の中はアレですか?色んなモノがあるんですか」だ)。それじゃぁ、「理系のコスプレ」だよなぁ、と思いキッパリ答える。
白衣は全然着ないです…(三点リーダーがキッパリでないような気も?)「理系=白衣」というようなステレオ・タイプな理系像だけでは面白くないしねと頭が思いながら、何故か口が勝手に動き始める。
どっちかというと、作業服ですよね。明和電機の兄弟が着てるようなやつです。
AD: あぁ、(ノーベル賞で有名になった)田中さんみたいな?
そうそう、そんな感じのアレですね。技術系はやっぱりアレですね。うん。
AD: なるほど。なるほど。あぁ、これもやっぱり「ステレオ・タイプな技術系像」だ…。看護婦の白衣と同じくらいの「技術系のコスプレ」だ…。隣の「女子高生」はそんな会話を聞きながら、またイヤ〜な顔を私に向ける。「田中さんのアレ」や「明和電機のアレ」では、女子高生には好かれないだろうなぁ…。だけど、そのキツイ視線は辛いなぁ…。
2005-07-05[n年前へ]
■「理系バカと(存在しない)文系バカ」
「おろかもの」の正義論 から。しかし、考えてみれば、理系馬鹿という言葉と同じく、文系のありとあらゆる分野でも、対応するものがありあそうな気もしてくる…。
ところが、文科バカという言葉は存在しないようだ。たぶん文科系の場合は頭に「文科」をつける意味がないのだろう。 小林和之 「おろかもの」の正義論 ちくま新書