2008-06-16[n年前へ]
■ブレーキングとコーナリングの荷重問題
車の運転をする時、「各タイヤへの荷重状態」が重要だ、とよく聞くような気がする。あるいは、スキーやスケートをする時も、前後左右への荷重状態、つまりは足裏感覚が重要だと言われる。そして、そういった荷重状態を決める大きな要因は、加速度吸収(サスペンション)と重心移動だとよく聞かされた(ような気がする)。
車を走らせるときの荷重状態が前後左右に変化するというのは、直感的には理解できるようでいて、それをちゃんと説明しようとすると、結構難しいことに気づく。たとえば、台車を早く押していて、廊下の角を急いで曲がろうとすると、台車が外に倒れそうになることがよくある。それは、感覚的にはとても自然であるし、現実にも台車は外に倒れてしまう。けれど、その動きを論理立てて説明しようとすると、きちんと説明できない自分に気づくのである。
そこで、車を(これい以上ないくらい)単純なモデルに変えて、ブレーキング時とコーナリング時に働く力、さらにはその力がサスペンションに働き、荷重状態を変える過程を図にしようと試行錯誤してみたのが、下の図である。簡単のために、前後(もしくは、左右のタイヤを90度直行した状態に固定するように繋ぐサスペンションがある、というモデルで絵を描いてみた。
つまりは、ブレーキをかけた時に働く慣性力や、コーナリング時に働く遠心力が、90度直行する2本のサスペンションにそれぞれ分配される、というモデルである。こんな単純なモデルであると、図の右の方に書いたように、ブレーキ制動時には前輪が沈み・後輪が浮き、左コーナリング時には「右輪が沈み・左輪が浮く、ということになる。
…が、実際にはこんな風な単純な構造の車はないので、慣性力や遠心力がどの部分にどう働き、どのような荷重状態になっているのかは、やはり今一つよくわからない。また、こういった単純なモデルでは、ロールやピッチやヨーといった、3軸回転を(全体として)表現することができない。誰か、自動車や台車スキーやスケートや…つまりは、ありとあらゆる「乗り物」の荷重状態と動きを簡単にわかりやすく単純明快に説明してはくれないものだろうか。
「オーディオ」機器に関する説明が単純なようでいて、その説明を追いかけ・納得しようとすると難しさ極まりないように、「(趣味の車やスキーといった)スポーツ」に関する解説も、「なるほど」と納得するのは結構難しくて、落ちこぼれてしまうことが多いような気がする。
2008-06-30[n年前へ]
■「競馬」と「資本主義」
「何か」を表すためにスポーツを「たとえ」に使うことは多い。現在の「資本主義」をスポーツで例えるならば、それは「競馬」だと思う。「経済」に関する知識が(悲しいくらい)乏しい私の頭の中では、「競馬」は「現代の資本主義」とよく似ているように思う。
競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ。
マーク・トウェーン
AERA Mook Special 「21世紀を読む」の中で、岩井克人が「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」というようなことを書いていた。これは、マーク・トウェーンが”競馬”について語った「競馬を成り立たせているのは意見の違いだ」という言葉とよく似ている。”違い・差”があって初めて、現在(現実)の資本主義を回すエネルギーは生まれるのだ、という風にこの言葉は響く。「理想とズレ(差)がある現実を、理想に合わせていく調整の仕組み」ではなく、「ありとあらゆる意味の”差”を持ち続ける現実から生まれる利益」で世界が動いている、というように「競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ」という言葉、そして岩井克人の言葉、は響く。
やりたいことと売れるというのは違うね。売れるってことはハリウッド映画みたいな、頭悪~い奴もわからなきゃいけないってことだぜ。
(西原理恵子との対談で)みうらじゅん ユリイカ 2006.07
たとえば、「PCを自由自在に使うことができる人」がいたとする。その人が「技術的な面で心地よく理解しあえる人」を周囲に求めようとしたならば、つまり周囲と自分との間の技術的な”違い・差”="境界"を小さくしたいと願うなら、ほとんど多くの場合”利益”を生むことはできないのではないだろうか。「あなたにできること」は「相手もできたりする」のだから、境界がないのだから、そうそう利益が生まれるわけもない。
けれど、「PCを自由自在に使うことができる人」が、「PCという言葉もよく知らないし、そんな代物を使うこともできない人」たちの中にいるなら、そこから「利益」を生むことは比較的容易にできるように思う。それを言い換えるなら、「技術的な満足」と「大きな利益」はなかなか両立しえない、ということになる。
どんな選択を選ぶかどうか、つまり「どんな馬券を買うかどうか」「あるいはそんな馬券なんか買わない」といった賭けが積み重なったものが、現在まで続く世界を生み出し・動かしているのかもしれない。選択肢という名の馬券はたくさんあって、どんな方向にに手を伸ばし、どこかに向かって進んでいく、動かず佇み続ける、違いのある場所に行く、あるいは、理解しあえる場所にいく、そんな数々の選択が積み重なってこの世界を作り出しているのかもしれない、と思う。
2008-12-13[n年前へ]
■「F1の変化」と「スポーツの定義」
本田技研工業が今シーズンを最後にF1世界選手権から撤退するというニュース、あるいは、F1がさらに使用リソース・技術を削減していくという記事を見て(F1 ルール変遷)、ふと、車両技術開発者やドライバーやメンテナーや、そんな多数の人からなるチームが競い合うF1というスポーツは、どういうスポーツなのだろう、と思った。そして、自動車レースの写真とともにスポーツ博物館の入り口に掲げられていた文章を思い出した。
"What is Sport"と題されたその文章を前にして、「スポーツが私たちに与えてくれるものが何なのか」と、ずいぶんと考えさせられた記憶がある。ふと、そんなことを思い出した。
Despite the entry of sport into the marketplace, the older meanings of sport persist. It still thrills, provinding people with a sense of identity and community and a way to feel good about themselves. The nature and definition of sport continues to be redefined.
2009-05-08[n年前へ]
■Take Me Out to the Ball Game~私を野球に連れてって~
朝日新聞「観衆直撃、球場やきもき」から。
野球というスポーツは球を激しく打つことで成り立つ。これを見るためにファンは球場にやってくる。どこに球が行くかなんて、誰も責任は持てない。
「視界を遮るものはいらない」
Take me out to the ball game,
Take me out with the crowd;
Buy me some peanuts and Cracker Jack,
I don't care if I never get back.
Take Me Out to the Ball Game
(私を野球に連れてって)
2009-06-07[n年前へ]
■すべてのことを、つまり、人生ってやつを教えてくれるんだ
山際淳司の「スローカーブを、もう一球 (角川文庫) 」から。
ふと思い出した台詞がある。ヘミングウェイが、ある短編小説のなかでこんな風にいっているのだ。
「スポーツは公明正大に勝つことを教えてくれるし、またスポーツは威厳をもって負けることも教えてくれるのだ。要するに・・・・・・」
といって、彼はつづけていう。「スポーツはすべてのことを、つまり、人生ってやつを教えてくれるんだ」
悪くはない台詞だ。