2009-04-30[n年前へ]
■「プライドの使い方」と太宰治
荒井玲子「ソフトウェア開発 で伸びる人、伸びない人 」の「あとがき」から。
人は、必ず変わることができる。
私はいつもそう信じています。そして、変わるならば、良い方向に、幸せな方向に向かってほしい、と願っています。
…プライドは、外に向けるのではなく、自分自身に向けることです。
…実は、私自身もかつては誤った高いプライドを持ち、肩に力が入った日々を送っていました。…(それが)変わったきっかけは…ある本を読んだことです。もしも、あなたが「どうしたら伸びる人になれるのだろう?」と思って、この本を手にとって下さったなら、この文章を読んで楽になって下さい。
「まじめに努力していくだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう。知らない事は知らないと言おう。出来ない事は出来ないと言おう。思わせ振りを捨てたならば、人生は意外にも平坦なところらしい。磐の上に、小さな家を築こう。」
太宰治 「正義と微笑 」
2009-06-23[n年前へ]
■二元論と混沌と未来
白倉伸一郎 「ヒーローと正義 (寺子屋新書) 」から。
最後に、二つのことを確認しよう。
一つには、わたしたちの善悪感は、もっぱら<わたしたち><あいつら>の二元論に還元されるということ。
もう一つは、それでもわたしたちは、混沌が大好きだということだ。
わたしたちが、そうして混沌を愛しているうちは、まだ望みはある。
2010-01-26[n年前へ]
■知らないことは知らないと言おう。
太宰治の(「パンドラの匣」と「正義と微笑」が収録されている)「パンドラの匣 (新潮文庫) 」のAmazonレビューから。
世にある(太宰治)のイメージは、「人間失格」や「桜桃」の虚無的な人なのでしょうが、太宰は意外に軽みと明るさのある人であったな、と、大人になった今は思います。
私が始めて読んだ太宰は「正義と微笑」でした。前向きな、爽やかな青年の姿がかかれています。しかし、その底流には、病気と闘っていたり、繊細な心で色々なことを考えたりするといった、陰の部分もあるわけです。
この小説を読むと、何かと戦いながら、軽やかな明るさをつかんでいく青春の姿を感じます。それは、まるで夜明けの寂しい明るさのようです。けれど、そこには(ほのかな)希望の光が見えます。
ぼくは、きょうから日記をつける。この頃の自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がしてきたからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格が作られる、ルソーだか誰だか言っていたそうだが、あるいは、そんなものかもしれない。
「正義と微笑」の冒頭節から
まじめに努力して行くだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう。知らないことは、知らないと言おう。できないことは、できないと言おう。思わせ振りを捨てたなら、人生は、意外にも平坦なところらしい。岩の上に、小さい家を築こう。
僕は、来年、十八歳。
「正義と微笑」の最終節から
2010-07-28[n年前へ]
■「見届ける」ということ
from 「見える範囲のFinite justice」から。
正義の女神ジャスティスは、目隠しをしている。予断を禁じ、公平な採決を下すためだが、けれどもその目隠しは、同時に、彼女自身の隠れみのにもなる。彼女は、人を平気で天秤に乗せ、平気で剣を振り下ろすことができる。彼女は自分の剣が、どんな人の命を奪うことになるのか見ないままでいられる。
しかし、わが国の<正義>の女神は、目隠しをしない。日本の最高裁判所にある「正義」の像は目隠しをしていない。
彼女は、誰を天秤に乗せ、誰に対して剣を振るわなければならないのか、その目をしっかり開いて、一部始終を見届けなければならない
2011-01-19[n年前へ]
■戦場で写るもの・写すもの・写らないもの
旅先でテレビをつけると、何度眺めても、いつも私の心をくすぐる、魅力的な戦場カメラマンが出ていました。そして、こんなような言葉を言っていたような気がします。
「戦争で得をする人が必ずいるんです。戦場で、ファインダーをのぞき、それを見つけ出すことが大切だと、私は感じています」
わかりやすい言葉です。けれど、少し「わかりやすぎる」言葉にも思えます。だから、その言葉をきっかけに、なぜかずいぶん長いこと考え込んでしまいました。
戦場に立ち目の前に広がるものを眺めたとき、そこに写る人がいれば、その人々はほとんどが戦争で損ばかりををする人ではないか、という気がします。そして、それと同時に、競馬場でレースを眺める人たちのように、そこに立つ人の中にはは得をする可能性もあるけれど、悲しいくらいの損をする可能性も高いという人も多いのではないか、などと考えさせられtのです。
もしかしたら、「戦争で得をする人」という存在があれば、それは戦場で覗くファインダーには写らないのではなかろうか、という気もします。そういう存在こそが、そういう存在を指向することこそが、「戦争で得をする存在」なのではないか、などとと感じたのです。
(病室に横たわる)夏目雅子の顔を撮れない奴は、戦場で死体の顔だって撮れねえんだよ。病院の壁を乗り越えられねえ奴が、どうして戦場の鉄条網を越えられるんだよ。倒れて行く兵士たちの顔を、正面から撮るんだぞ。
野田秀樹 「20世紀最後の戯曲集 」
ファインダーにはたくさんのものたちが写ります。それと同時に、写らない「人やもの」もたくさんあるのかもしれません。私たちは、戦場に向けられたファインダーに写る存在でしょうか。それとも、写らないものを指向する存在でしょうか。
しかし、わが国の<正義>の女神は、目隠しをしない。日本の最高裁判所にある「正義」の像は目隠しをしていない。
彼女は、誰を天秤に乗せ、誰に対して剣を振るわなければならないのか、その目をしっかり開いて、一部始終を見届けなければならない - そうする自分自身の顔を、世間に対してさらしものにしながら」
白倉伸一郎 「ヒーローと正義 (寺子屋新書) 」