1999-06-17[n年前へ]
■人静月同照
ぼくらが旅に出る理由
この写真は奈良の橿原のはずれ辺りで撮影したものである。、車のボンネットの上で30秒の露出を行ったものだったと思う。まるで太陽のように輝いているのは、月だ。夜に京都を出発し、和歌山の海の近くで日の出を迎えたのだから、この写真を撮ったのは深夜だったはずだ。
和辻哲郎の随筆によれば、夏目漱石は李白の「人静月同眠」という詩を「人静月同照」だと思っていたそうだ。「人静かにして月同じく眠る」では単なる情景であるが、「人静かにして月同じく照らす」ならば思想である。和辻哲郎は、「人静かにして月同じく照らす」という言葉に漱石の人間に対する態度や、自ら到達しようと努めていた理想がこもっていたと言う。
1999-06-27[n年前へ]
■影絵
確かなものはただ一つ
淀川の河川敷で夏の日暮れた頃に撮影した写真である。写真の二人はどんな人達だろうか。写真の中に何を見るかは人によって違うのだろう。
「写真」は言うまでも無く"Photography"の訳語である。Photo(光)-graphy(画)、すなわち、光による画である。そのままである。しかし、日本人は写真と訳した。「真を写すもの」である。しかし、「写す」は外見的なものを描くときに用いられ、内面的なものをも描くときには違う「うつす(漢字が登録されていないので出せない)」が使われる。だから正確に言えば、「写真->真実の(内面までは描けないが)外見を描こうとしたもの」である。外見のみを写し取った、それはまるで影絵である。そして、光画と写真のどちらがふさわしいか、というようなことはここでは考えない。
Photographyは元はPhoto(光)-gram(メッセージ)であるから、「光のメッセージ」である。立体物を記録することのできるホログラム(Hologram)はHolo(完全な)-gram(メッセージ)である。「完全なるメッセージ」だ。その写真版はホログラフィーHolographyであり、Holo(完全な)-graphy(画像)である。
「見ればわかる」とは言うが、物事はそう単純ではない。必ず、見えていない側面は存在するし、考え忘れていることもあるはずだ。結局、何が真実であるかは決められるものではない。それでも、真実に近づこうとし続ける姿勢が大切なのだと思う。
1999-07-09[n年前へ]
■絵馬
どこにもいないよ
京都の吉田山界隈の神社で撮影した写真だ。中央の絵馬には、
「どうかもう一度
二人で幸せに
なれますように」
と書いてある。ずいぶんと長い間悩んだ末に撮影したものである。
最近、欠かさず見ているWEBサイトがいくつかある。面白いとか、そういうことではない。読まずにはいられない何かがある。
そのいずれのサイトもが読み手を期待していない、あるいは、どこにもいない人に対して何かを伝えようとしているように感じる。それらの文章はWEBで公開されているのだから、そこで吐露されている文章はWEBを通過する全ての人の目に触れるはずだ。しかし、それらの人に向けて発せられたものではない。
それは、絵馬と同じだ。絵馬もまた通りかかる人全ての目に触れる。しかし、そこに書かれた「人の願い」もやはり人に向けて発せられたものではない。人に向けられていない、あるいは、どこにもいない人に伝えようとしたものだからこそ、なのだろう。
絵馬は日や風雨に晒された後に燃やされて消えていく。WEBサイトもそれは同じだ。消えていくものは一体何だろうか。残るものは何だろうか。
1999-07-24[n年前へ]
■視点
ここにいるよ
長野県の須玉にある病院で撮影した写真である。古い顕微鏡を光が照らそうとしている。顕微鏡を覗いてみたが、レンズが汚れているせいかうまく焦点を合わせることができなかった。光学系にとって焦点をいかに先鋭にするかは一番苦労するところである。
景色に焦点を合わせて、フィルムに結像させるのがカメラだ。しかし、フィルムに写っているのは単なる景色ではない。カメラの光が集まる焦点にフィルムが位置していると思い込むとわからなくなる。逆から考えてみれば簡単に判るはずだ。カメラの視点にフィルムが位置しているのだ。フィルムに景色が写っているのではなく、フィルムが景色を選び、景色を切り取っているのである。
写真に写っているのは、撮影者の視点なのである。写真を見れば、撮影者が、どこに立ち、何を見てるかが浮かび上がってくるはずである。フィルムに写っているのは撮影者自身なのだ。
1999-08-01[n年前へ]
■合掌
キレイはキタナイ、キタナイはキレイ
Bangkokの街の中を歩いている時に撮影したものである。ここでは、祈りを捧げている人をいたる所で見かける。
元来、ワイ(合掌)は、神聖な右手と不浄の左手を合わせることにより、人間の真の姿を表現する試みであったという。それはどんなものにも複数の側面が存在しているということだ。どんな人も不浄でもあれば神聖でもある。そして、どんなことでもそれは同じだ。
全てのものは、色々な側面が存在する。神聖と不浄であってもいいし、他の言い方でも良い。例えば、文化と経済、西洋と東洋、販売と生産であってもいいし、伝統と革新、研究と開発、喜劇と悲劇、本人と他人であっても良いだろう。そして、論理と感情もそうだ。
物事は色々な側面が存在しているのだから、一つの立場を振りかざす論理というものはたやすく崩壊する。感情で動く人に論理を振りかざしても、喝破されるのがオチだろう。「みんなはこう思う」というような言葉は「私はそう思わない」と言う人の前ではなんの意味も持たない。
物事を続けていく中で、「複数の側面があるからこそ続けられる」と思うことも多い。どんなことであっても、一つの立場からだけ続けていくのとても苦しい。しかし、複数の側面があれば何とかやっていくことができる。鴻上尚史の「ドン・キホーテのピアス」の言葉を借りれば-全体は一つではなく、二つの側面があるからなんとか生きていける -ということだ。
色々な側面があるからこそ、動機が生まれ、原動力となり、継続することができるのだと思う。ワイ(合掌)する人を見ると、ふとそう思うのである。