1999-11-27[n年前へ]
■The Way We Were
君の行く道
CasioのE-500で撮影した写真である。道が不思議に輝いていた。
Michael J. Foxの出世作でもある"FamilyTies"というTVシリーズがある。日本語に訳せば、「家族の絆」というタイトルの通り、ある家族を中心としたコメディ番組だ。MichaelJ. Fox演じる長男、を含む家族達の周りの色々な話しが描かれている。コメディの珠玉の名品だと思う。
その「ファミリータイズ」の中で"The Way We Were"という話があった。日本放映時(ビデオ化)のタイトルは「キートン家の語り部おばさん」だったと思う。
ローズおばさんは、キートン一家の母方のおばさんだ。その母方のドネリー家の歴史をいつも話してくれる、キートン家の人気者だ。しかし、何かローズおばさんの様子がおかしい。そうしている内に、キートン家の家族達は、おばさんがアルツハイマー病にかかっていたことを知る。そのキートン家の長男でもあるMichael J. Foxは、現在パーキンソン病を克服しようとしている。
そして、アルツハイマー病を克服しようと決意したローズおばさんは、長女マロリーに、「お願いがあるの。私がこれまで話していた物語を、これからはあなたが伝えていって欲しい。」と頼む。そして、ローズおばさんの前でマロリーは長い長いドネリー家の歴史を語り始める。「時は1741年、冷酷なイギリスの統治によりアイルランドを暗雲が覆った... 」家族が集まる中、マロリーが最後まで語り終わると、ローズおばさんは黙って頷く。
2000-03-11[n年前へ]
■Believe It or Not?
空を飛べるんだ
TOYSTORY2がまもなく上映される。カウボーイ人形のウッディを宇宙戦士バズらが救出に向かう話だ。カウボーイ人形のウッディはかつて、テレビ番組の人気スターだったという設定だという。
この設定を聞くと、ある話を思い出す。結構前のことになるが、「アメリカン・ヒーロー(TheGreatest American Hero)」というTVシリーズがあった。簡単に言えば、「スーパーマンのバッタもん」である。しかし、私は大好きだったのだ。一介の高校教師ラルフがUFOからスーパースーツを与えられて、活躍?するという話だ。
その中の一話に、かつて「かつてテレビ番組の人気役だった老俳優」とともにラルフが活躍する話があった。人気役というのはLoneRangerか何かだったと思う。あるいは、違ったかもしれないがとにかく、西部劇の正義の味方役だった。カウボーイ人形のウッディみたいなものだった。もっとも、もう記憶も定かでないので、確かではない。その中で、ラルフが老俳優に"Youare the greatest American Hero."というセリフがあって、笑えるような、ホロリとするような、好きなセリフだった。
そういえば、宇宙戦士バズをカウボーイ人形のウッディが救ったToy Storyでは、ウッディは"Youcan Fly!"というセリフを繰り返し叫んでいた。それに、最後には"I can fly!"というセリフもあった筈だ。これもとっても良い感じだ。「アメリカン・ヒーロー」でもJoeyScarburyが歌っていた主題歌"Believe It or Not?"は同じような感じで素敵だった。
信じるかい? それとも信じないかい? だけど、ぼくは空を飛べるんだ。
2000-03-29[n年前へ]
■明日、春が来たら
風の中の瞳
昨日、海辺を歩いた。車は海沿いの堤防の上に停めた。堤防の上に留めた車の揺れが止まらない程、強い風が吹いていた。もう三月も終わりなので、春一番というわけではないだろう。それでも、もう春なのだなぁ、と強く感じさせる。
ところで、この海辺からは富士山がよく見える。富士山レーダーもよく見える。この海辺ももちろん見通しは良いのだが、「見通せる範囲」を言うなら、富士山レーダーの方がずっと広い。遠くを見通すのがレーダーの使命なのだから、当たり前の話だ。そして、富士山の山頂から、遙か遠くまで見通し続けたのが、富士山レーダーである。
今日、NHKの「挑戦者たち」でその建設をした人達が紹介されていた。富士山レーダーを作る指揮をし、情熱を傾けていたのが当時、気象庁観測部補佐官だった藤原寛人、すなわち、新田次郎であるとは知らなかった。新田次郎が富士山の山頂に行きたいから気象庁に入ったというのは、知っていたが、富士山レーダー建設の指揮をしていたとは知らなかった。とても面白く、そして何故か納得する話だ。
息子の藤原正彦もそうだが、新田次郎の書く文章には「冷静に見通す力」と「情熱」が同居している。時々、新技術を考えていると、彼らのような、未来すなわち明日を「見通す力」と「それを手に入れる情熱」が欲しい、とつくづく思う。
2000-04-07[n年前へ]
■Canon Simplex +
オリジナルとコピーの追復曲
野田秀樹、NODA MAPの新作「カノン」が上演されている。観に行きたいのだが、距離のせいかなかなか見に行けそうにない。
観ていないので内容は知らないのだが、タイトルのカノンは「規範」を意味するギリシャ語のkanonだろう。英語で言えばcanonである。辞書でカノン(canon)を調べてみると、
- 規範、原則、標準、規準、根本原理 類似語 = "criterion"
- 基本的重要文献
- 真作品
- 教会法
- 聖書正典、正経
- 音楽形式のカノン、追復曲
- 48ポイントの活字
ちなみに、音楽形式としてのカノン=追複曲は、「主題としての一声部が応答としての他声部に模倣される形式」とある。「かえるの歌が聞こえてくるよ…」はその単純な例である。一つのメロディから導き出された旋律が重なり合っていくわけだ。あるいは、山下達郎の「クリスマスイヴ」の中間部のパッヘルベルのカノンといった方がわかりやすいだろうか。
音楽形式の「カノン」では、最初の旋律が主題であり原典である。そして、その模倣旋律が組合わさって、魅力的な音楽が作られていく。
ところで、「カノン」という言葉の意味の大きな割合を占める「聖書」という言葉を考えた時、音楽形式である「カノン」と似たようなものがある。
それは印刷技術である。と、書くと、唐突に感じるかもしれない。しかし、聖書の複製をきっかけとして広まった技術が、印刷技術である。それほど、関係がないわけではない。印刷技術は、グーテンベルク(ちなみに、今年はグーテンベルク= Gutenberg, Johann Gensfleischの生誕600年目である)の「42行聖書」から始った原典を複製する技術である。
印刷技術は、一つの原典から複数の複製物が作り出されていく。それは、一つの旋律から導き出された複数の旋律が追いかけていく、音楽のカノンそのものである。印刷技術はもうひとつの「カノン」なのである。
本来、「カノン」という言葉は「規準、原典、教典」を指すわけであるが、同時に、この「カノン」という言葉には「複製」という匂いがつきまとう。先の追復曲=カノン、そして印刷された聖書もそうだ。
グーテンベルクの「42行聖書」は200部程度印刷された。それらはいずれも色々な装飾がされ、同じ物は一つとしてない。どれも個性豊かなものである。音楽の「追復曲=カノン」でも、輪唱のようなごく単純なカノンを除けば、旋律は魅力的に変化されていく。旋律はどれも個性豊かなものである。個性がなければ、それはとてもつまらない輪唱に終わってしまう。
きっと、NODA MAPの「カノン」では野田秀樹の「言葉を繰り返し、次々と意味を転じさせて、そして、何者かを描写していく力」が発揮されるのだろう。考えてみれば、野田秀樹の「言葉を操るやり方」もカノンそのものである。模倣から始まったモノであっても、何かが新たに加えられていくならば、それは模倣でなくなって、きっといつかは原典になるのだと思う。逆に、あまりに原点としての「カノン」を守ろうとしたものは、それは単なる「コピー」に終わる。
さて、ところで「コピー」という言葉と「canon」という言葉を考えるとき、ある企業(が頭の中に浮かぶ。「Xerox」というオリジナル旋律に派生する企業である。
原典とされた「Xerox(富士ゼロックス)」はかつて、丸善石油のCM「オー・モーレツ!」を原典として、「モーレツからビューティフルへ」というCMを作り上げた。それは素晴らしい本歌取りである。60年代を代表する「オー・モーレツ!」という「キャッチ・コピー」を、「コピー」して、さらに変化させることで70年代へ繋がる「モーレツからビューティフルへ」という「キャッチ・コピー」を作り上げたのである。それはもう、一つの哲学であるといって良いと思う。
一方の企業は80年代に苺の「コピー」にミルクをかけてみせ、「本物と"コピー"の違いは見分けられない」というCMを作り上げた。原典と「コピー」に違いがあるのか?という問いかけである。それもまた一つの哲学だろう。
原典にこだわりすぎ、単なる「コピー」に終わるか、それとも、何者かを加え「本歌取り」としての「カノン」にすることができるか、それは「Vision」の有無にかかっている、のかもしれない。本当の「カノン」になるかは、「Vision」次第だ。そんなに深い意図はないし、適当に書いてみただけだけれど。
うーん、今回はやっぱり、「スクラップ」行きだな。(BGM & Title ゴルトベルグ変奏曲による14のカノンJ.S.Bach)
2000-06-13[n年前へ]
■コンクリートの隙間に
足元にあるカメラオブスクラ
写真を撮り出した人が必ず罹る病が、「街中のありふれたものに美を感じだす」ことだと思う。カメラを使い出した最初の頃には、誰しも必ず罹るのではないだろうか?街中の看板やちょっとした何かにレンズを向けた人は多いと思う。私などは、いつまで経っても写真初心者だったりするので、今でもその病は治っていない。カメラをたまに持つと、どうしても単なる路肩などにレンズを向けてしまう。私はこんなコンクリートの隙間がとても好きなのだ。
デジカメを持ち歩く今でも、やはり道のアスファルトと建物のコンクリートの隙間や、道端の街路樹との隙間には何故か惹かれてしまう。桜の樹の下から目をそらすことができなかった人がいるように、私はその隙間から目をそらすことができない。それは、文字通りの「隙間」だけでなくて、もっと広い意味でも「隙間」も含めてである。
そんな隙間を意味する"aperture"は、同時に光学系の絞り・有効口径をも意味する。"aperture"が大きければ、焦点が合っているところは明るく映し出される。そして、分解能は高くなり、はっきりと物事が見えるようになる。しかし、それはあくまで部分的な話である。なぜなら、"aperture"が大きければ大きいほど被写界深度は浅くなり、焦点が合うのはごく一部だけになってしまうからだ。その結果、焦点が合っていない個所はボケて、そこに何があるのか見えなくなってしまう。部分的には、はっきりと写し出されていても、それは部分的だ。ある部分を正確に描写しようとすればするほど、他の部分が見えなくなることがある。
カメラオブスクラの光を通す「小さな隙間」のように、その隙間を小さくしていけば、はっきりと世界が写るようになる。隙間を小さくすればするほど、世界ははっきりと、そして暗くなる。そして、"aperture"が限りなく小さくなってしまえば、光が届かずにもう何も見えなくなってしまうだけだ。それでは、もう何も写らなくなってしまう。
そんなわけで、こじつけすぎるかもしれないけれど、ちょっとした大きさの隙間だからこそ、見える色々なものがあるはずだ、と私は思う。中途半端で、あいまいで、長続きしそうにもない隙間のような場所だからこそ、ボンヤリとしてはいても、色々なものが写っているかもしれない、と思ったりする。