2000-04-07[n年前へ]
■Canon Simplex +
オリジナルとコピーの追復曲
野田秀樹、NODA MAPの新作「カノン」が上演されている。観に行きたいのだが、距離のせいかなかなか見に行けそうにない。
観ていないので内容は知らないのだが、タイトルのカノンは「規範」を意味するギリシャ語のkanonだろう。英語で言えばcanonである。辞書でカノン(canon)を調べてみると、
- 規範、原則、標準、規準、根本原理 類似語 = "criterion"
- 基本的重要文献
- 真作品
- 教会法
- 聖書正典、正経
- 音楽形式のカノン、追復曲
- 48ポイントの活字
ちなみに、音楽形式としてのカノン=追複曲は、「主題としての一声部が応答としての他声部に模倣される形式」とある。「かえるの歌が聞こえてくるよ…」はその単純な例である。一つのメロディから導き出された旋律が重なり合っていくわけだ。あるいは、山下達郎の「クリスマスイヴ」の中間部のパッヘルベルのカノンといった方がわかりやすいだろうか。
音楽形式の「カノン」では、最初の旋律が主題であり原典である。そして、その模倣旋律が組合わさって、魅力的な音楽が作られていく。
ところで、「カノン」という言葉の意味の大きな割合を占める「聖書」という言葉を考えた時、音楽形式である「カノン」と似たようなものがある。
それは印刷技術である。と、書くと、唐突に感じるかもしれない。しかし、聖書の複製をきっかけとして広まった技術が、印刷技術である。それほど、関係がないわけではない。印刷技術は、グーテンベルク(ちなみに、今年はグーテンベルク= Gutenberg, Johann Gensfleischの生誕600年目である)の「42行聖書」から始った原典を複製する技術である。
印刷技術は、一つの原典から複数の複製物が作り出されていく。それは、一つの旋律から導き出された複数の旋律が追いかけていく、音楽のカノンそのものである。印刷技術はもうひとつの「カノン」なのである。
本来、「カノン」という言葉は「規準、原典、教典」を指すわけであるが、同時に、この「カノン」という言葉には「複製」という匂いがつきまとう。先の追復曲=カノン、そして印刷された聖書もそうだ。
グーテンベルクの「42行聖書」は200部程度印刷された。それらはいずれも色々な装飾がされ、同じ物は一つとしてない。どれも個性豊かなものである。音楽の「追復曲=カノン」でも、輪唱のようなごく単純なカノンを除けば、旋律は魅力的に変化されていく。旋律はどれも個性豊かなものである。個性がなければ、それはとてもつまらない輪唱に終わってしまう。
きっと、NODA MAPの「カノン」では野田秀樹の「言葉を繰り返し、次々と意味を転じさせて、そして、何者かを描写していく力」が発揮されるのだろう。考えてみれば、野田秀樹の「言葉を操るやり方」もカノンそのものである。模倣から始まったモノであっても、何かが新たに加えられていくならば、それは模倣でなくなって、きっといつかは原典になるのだと思う。逆に、あまりに原点としての「カノン」を守ろうとしたものは、それは単なる「コピー」に終わる。
さて、ところで「コピー」という言葉と「canon」という言葉を考えるとき、ある企業(が頭の中に浮かぶ。「Xerox」というオリジナル旋律に派生する企業である。
原典とされた「Xerox(富士ゼロックス)」はかつて、丸善石油のCM「オー・モーレツ!」を原典として、「モーレツからビューティフルへ」というCMを作り上げた。それは素晴らしい本歌取りである。60年代を代表する「オー・モーレツ!」という「キャッチ・コピー」を、「コピー」して、さらに変化させることで70年代へ繋がる「モーレツからビューティフルへ」という「キャッチ・コピー」を作り上げたのである。それはもう、一つの哲学であるといって良いと思う。
一方の企業は80年代に苺の「コピー」にミルクをかけてみせ、「本物と"コピー"の違いは見分けられない」というCMを作り上げた。原典と「コピー」に違いがあるのか?という問いかけである。それもまた一つの哲学だろう。
原典にこだわりすぎ、単なる「コピー」に終わるか、それとも、何者かを加え「本歌取り」としての「カノン」にすることができるか、それは「Vision」の有無にかかっている、のかもしれない。本当の「カノン」になるかは、「Vision」次第だ。そんなに深い意図はないし、適当に書いてみただけだけれど。
うーん、今回はやっぱり、「スクラップ」行きだな。(BGM & Title ゴルトベルグ変奏曲による14のカノンJ.S.Bach)
2005-03-21[n年前へ]
■Gutenberg, Xerox, PCs, and the Internet
「グーテンベルグ(印刷技術)は全ての人を読者に変えた。ゼロックス(コピー機)は全ての人を出版者に変えた。パーソナル・コンピュータは全ての人を作り手に変えようとしている。そして、インターネットは人を-コメントをつける人-にしてしまった」
Gutenberg made everyone a reader,Xerox made everyone a publisher.Marshall McLuhan
And, personal computers are making everyone an author.Stewart Brand
And, the Internet has made everyone a commentator. Christian Science Monitor; June 19, 1995
2005-04-11[n年前へ]
■「マクルーハンから鴻上尚史」再び
Gutenberg, Xerox, PCs, and the Internetのマクルーハンの言葉に始まる
グーテンベルグ(印刷技術)は全ての人を読者に変えた。ゼロックス(コピー機)は全ての人を出版者に変えた。PCは全ての人を作り手に変えようとし、インターネットは人を「コメントをつける人」にしてしまったというフレーズと、「コメントを書くスペース」を作るということの中の言葉を繋いでみる。
コメントが溢れるのは、…コメントを書く枠(スペース・空間)があるから、としか言いようがないのです。コメント欄が溢れる各種ツールを使っていると、自分がすぐに「コメントをつけるだけの人」になってしまいそう。
2005-05-27[n年前へ]
■大阪府立大学でマクルーハン
大阪府立大学で、印字(画像)出力市場の10年後、に関するシンポジウムを聴く。個人的には、アラン・ケイの言葉で話を締めくくった富士ゼロックスの深瀬氏の話と、マーシャル・マクルーハンの言葉で締めくくったリコーの平倉氏の話に興味を持った。もっとも、興味を持ったのはどういう人が・どういう言葉のひくかという点だった。
「アラン・ケイの言葉で話を締めくくった深瀬氏の話」には、「未来を予想しよう」というシンポジウムと「未来を予測する最良の方法は、未来を創りだすことだ"The best way to predict future is to invent it."」というアラン・ケイの言葉とどう両立するのか、を聞いてみたくなった。また、「マクルーハンの言葉で話を締めくくった平倉氏の話」には、マクルーハンの言葉に繋がるフレーズを眺めると、フォーカスされるべきは出力技術自体ではないのでは?という質問をしてみたくなった。いずれも、その答えは(自分自身が出すべきことだと思ったので)結局質問はしないまま…。
Gutenberg made everyone a reader,Xerox made everyone a publisher.
Marshall McLuhan
And, personal computers are making everyone an author.
Stewart BrandAnd, the Internet has made everyone a commentator.
Christian Science Monitor;June 19,1995
2005-10-18[n年前へ]
■「短い言葉」
スラッシュドットの「Xeroxプリンタの印刷物に追跡コード」を読んだり、はてなブックマークを読み、ふと「グーテンベルグ」と「ゼロックス」で始まる色んな言葉を思い出す。何だか街角の不正確な話を楽しげにする井戸端会議みたい。あぁ、半年前もそんなことをふと思っていたんだった。
Gutenberg made everyone a reader,Xerox made everyone a publisher.グーテンベルグ(印刷技術)は全ての人を読者に変えた。ゼロックス(コピー機)は全ての人を出版者に変えた。Marshall McLuhan
And, personal computers are making everyone an author.PCは全ての人を書き手に変えつつあり、Stewart Brand
And, the Internet has made everyone a commentator. そして、インターネットは人を「コメントをする人」にしてしまったChristian Science Monitor; June 19, 1995
コメント欄が溢れる各種ツールを使っていると、自分がすぐに「コメントをつけるだけの人」になってしまいそう。 jun hirabayash! 2005/04/11