hirax.net::Keywords::「Scraps」のブログ



2000-07-07[n年前へ]

Everything looks better in black and white. 

I got an icon camera

 Paul Simonの歌にKodachromeという名前の曲がある。その中で、I got aNikon camera.というフレーズがある。この「a Nikon camera」という部分が、歌い方次第で「an ic(k)omCamera」と聞こえるという話があった。「偶像・聖像のカメラ」である。「ぼくは聖像のカメラを手に入れた」、そう考えるとずいぶんと趣のある歌詞だ。

 そういえば、私がカメラをいじるようになったきっかけも、この歌詞"I gotan Icon camera"と少しだけ似ていた。ずいぶんと前の話になるが、明け方に友人と気分転換のために散歩に出かけた。すると、その途中で「観音」という名前が刻んであるカメラを拾った。ずいぶんと古いカメラだったが、ちゃんと動いたのでそれを使い始めた。その「観音という名の聖像のカメラを手に入れた」ことが、私が写真にはまるきっかけだった。

 この写真は少し「偶像」を意識した写真だ。カメラを拾って、そして暗室で写真を焼き始めたばかりの頃の写真なので、少し甘すぎるようにも思うけれど、とても気に入っている写真の一つだ。
 

2000-07-29[n年前へ]

The Spirit Level 

Fair is foul, foul is fair.


 この写真は九州阿蘇山の麓にある京大火山研究所を撮影したものだ。草で覆われただけの小高い丘の頂上に、この火山研究所の建物はまるで灯台のように建っている。それはあまりに広大な景色だったので、手元にあった小さなカメラではそのままでは全景を撮影できなかった。しかし、「その広大で、それでいて箱庭のような景色の一部分だけを切り出す」ということはしたくなかった。そこで、近くにあったカーブ・ミラーを通してその広大な景色を撮影してみた。カーブ・ミラーの凸面鏡で反射させることで、広角の撮影をしようとしたのだ。だけど、それはとてもぼやけたミラーをだったので、ねじ曲がってただのよく判らない写真になってしまった。だけど、それでもその景色の一部分を切り出すよりは良かったはずだと思っている。


 この写真を撮影したのは、もう10年程前のことになる。その夏、私は二週間ほど中国・九州を旅行していた。それは普通の旅行ではなくて、観測のための旅行だった。GPSによる標高測定と水準測量による標高測定を同時に行うことで、ジオイド(重力の等ポテンシャル面のうち平均海面と一致するもの)の形状を調べようとする研究のための観測だった。といっても、私は単なる下働きだったから、何にも考えずただ昼は力仕事をして汗をかいて、夜は温泉に入ってビールを飲む、という何だかとても幸せな二週間だった。

 GPSによる幾何的な標高測定に対して、水準測量による標高測定は各地点における水平面を基準として標高を逐次的に測っていく。ところで、そもそも標高とは鉛直方向に対する位置である。それなら、一体鉛直方向とは何だろうか?それは、水平面に対して垂直な方向としか言いようがない。水平面が定まれば、一意に決まるわけだ。それなら、それは確かなものかと言うと、それは違う。

 何故なら、水平面自体が場所によって違うからだ。水平面というものは単純なものでは決してない。その周囲(または遠方)の質量の分布によっていともたやすく変わってしまう。重力場が変化するのだから、当然の話だ。水が重力に引っぱられて、重力の等ポテンシャル面を形成するのだから、質量分布によって重力場が変動すればその等ポテンシャル面である水平面は当然のごとく変動してしまう。

 水平面・水準といったとても基本的な基準でさえ、地球の内部や外部の状態でよくわからなくなってしまう。それは、ものを伝える言葉だって同じことだ。そもそもの原動力や背景があってこその基準や言葉なのだから、中にどんなものを秘めているかで物事の基準自体が変わってしまう。人が見ているものだって、その背景できっとみんな違っていると思う。それらは実のところ、とてもあやふやなものなのだ。

 だから、Fairなんてとても大切な言葉だって、人によってその意味するものは違うのだろう。例えば、今ここで"Fair"を例に出したのも、"Fairis foul, foul is fair."というマクベスの冒頭のセリフを知っていれば、「あぁ、そういうことか」とその意味するところを判るだろうし、その背景を知らなければ「何でそんなことをいきなり?」と感じるだけだろう。それだけのことだ。

 ところで、水準測定を行う時の必需品が"Spirit Level"である。この"SpiritLevel"という言葉は、直訳した 「心・生命の高さ・水平」なんて意味では全然なくて、単なる「水準器」という意味だ。簡単に言ってしまえば、単に"Level"だ。"Spirit Level"もグラスの中のアルコールを傾けてみれば、その語源は想像がつくだろう。

 確固とした基準になりそうな水準器でさえ、実はそんなに確かなものではないのだから、何かの確かなものがあるという思い込みこそ、実はとてもあやふやなものだろうと思うのだ。
 

2000-08-18[n年前へ]

夢十夜 

誰も知らない物語


 上野近くの神社で撮影した写真だ。画面中央左に女性が写っているのが判るだろうか。この女性は何遍も何遍もこの神社の前を往復していた。何かの願い事を叶えるために、御百度を踏んでいたのだろうか。もしそうだとしたら、私は悪いことをしたのかもしれない。とはいえ、この女性が何をしていたかどうかなんて、私には全然知る由もないことだ。きっと、それは本人以外には判りようがないことなのだろう。
 

 私は「空気」が写っている写真が好きだ。といっても、透明な空気がフィルムに写る筈がないだろう、と言われてしまうかもしれない。だけど、確かに「空気」はフィルムに写る。その「空気」は「物語」と言い換えても良いと思う。あるいは、「空気」でも"atmosphere"でも「雰囲気」というような意味があるのだから、それは単なる「空気」ではないのかもしれない。一体、そのフィルムに写っている「空気・物語」というのは何なのだろうか。
 

 そのフィルムに写っている「空気・物語」というものは、もしかしたら「フィルムに写っていないもの」じゃないだろうかと私は思っている。「フィルムに写っていないものが写っている」というのもとても変な言い方だが、そう感じているのだから仕方がない。フィルムに「空気・物語」を写せるかどうかというのは、写真に写っている景色の裏側、見えないところにあるものをどれだけ感じさせることができるかにかかっているような気がしている。

 「大事なものは目に見えない」と書いたのはSaint-Exuperyだが、もしも見えない部分、隠れている部分が全くないというのなら、それは張りぼてと同じだ。映画のセットと同じで、それはとても薄っぺらいものでしかない。「目に見えている部分」を支えているのは「目に見えない部分」なのだから、確かにそれはとても大事なんだなぁ、と思う。
 

2000-09-29[n年前へ]

Remorsus 

或るMail


 



 藤原正彦の「数学者の言葉では」を本棚から引っ張り出して読んでいる。読み直したかったのは冒頭の「学問を志す人へ--- ハナへの手紙」だ。

 この中で藤原正彦は学問(きっとそれは他のものでも同じことだろう)を志す人に対して、情操生活を犠牲にしているという事実を確認し、額に刻印をほどこした上で、学問に打ち込んで欲しい、と語る。そして、それがかけがえなく大切なものを犠牲にして進む人間のぎりぎりの免罪符であって、その免罪符はいつか必ず返すべきものだ、と語る。

 そして、「自分を欺かなければ学問を続けられないなら学問なんか止める」というハナに対して何故か感情的になってしまった過去を振り返りながら、

 ハナからの手紙を手にする度に、私自身の中にある「どうにか眠らせている痛み」を、覚醒してしまいそうな気がした。そんな時にはまず狼狽し、ついで危険を感じ、自衛手段としてハナの態度に憤慨したりした。
と書いている。
 

 この文章をどうしても読み直したかったのには理由がある。私も同じように感情的になってしまったからだ。藤原正彦のような学問のことではないけれど、やはり私にとっては同じような理由で狼狽してしまった。そして、少なくとも冷静に考えてみれば、ひどく間違っているMailを出した。そうはいっても、後悔してももう遅い。もう少しの間、この場所であの免罪符を信じてみることにしよう。
 

2000-11-09[n年前へ]

Pandora's box 

hope

 結合双子の分離手術の結果、結合双子のもう一人が亡くなった。主要な器官が一つしかなったのだから、それは苦渋の選択の結果だ。

 結合双子手術を考える時、野田秀樹・萩尾望都・ブラッドベリの「半神」を思い出さざるを得ない。「半神」のラストシーンは考えてみれば、パンドラの箱を強く示唆するものだった。「半神」の中でのパンドラの箱、すなわち「一つの棺」からは色々な化け物が生まれ、そして最後に「孤独」だけが残った。

 ところで、浦島太郎の玉手箱も同じくパンドラの箱と同じく、開けてはならないと言われた箱だ。「再会をしたいならば、決して開けるな」と言われ渡された玉手箱は「孤独」の中で開けられてしまう。箱が開けられた後は一瞬で時が流れ、そして人は消えていく。

 同じように、シュレディンガーの猫が入っている箱は、パンドラの箱でありそしてまた浦島太郎の玉手箱でもある。箱を開けない限りは、その中に何があるのかは決まらない。「棺」を開けてみて初めて、「棺」の中に何が入っているのかが決まる。箱を開けなければ、猫は生死の二つの存在のままである。シュレディンガーの箱に入っているものは、「箱を開けてみるまでは未来どころか現在のことすら決まらない」ということだけだ。

 結局、パンドラの箱の中に残ったものは「開けてみなければ、何が起こるかは判らない」という単純なことだけだ。判らないからこそ「希望」なのだ。結局のところ、それは掌の中の答えと同じだ。
 



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