2008-03-21[n年前へ]
■「ちりとてちん」と「地獄八景亡者の戯れ」と「自己言及パラドクス」
NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」がもうすぐ終わる。エンディングに近づきつつある「ちりとてちん」では、冥土ツアーが語られる落語「地獄八景亡者の戯れ(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」を演じる音声が、画面の後ろに流れているシーンも多い。
もともとこの話は、その時その時の事件や世相流行などをとり入れて、言わばニュース性を持たせてやる演出で伝わってきたものです。
森下伸也の「逆説思考」~自分の「頭」をどう疑うか~(光文社新書)を読んでいると、冥土ツアーが語られる落語「地獄八景亡者の戯れ(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」における、自己言及的パラドックスが挙げられていた。
このはなしの一応の原典と見てよいものは江戸時代の小咄本にありますが、各地の民話にもあり、また欧州の民話にもあるそうで、…本当の原典は従ってよく判らないというのが答えと言えましょう。
森下伸也「逆説思考」で挙げられている「地獄八景亡者の戯れ」での自己言及的パラドックス一つは、三代目桂米朝のものであ り、もう一つは桂文珍のものである。ちなみに、桂米朝のものはこんな感じの「地獄八景」である。
冥土の歓楽街に、亡くなった過去の名人の名前が豪華に並んでいる。よく見ると、そこに「桂米朝」の名前もなぜかある。
「そないな名の亡くなった落語家いてへんやろ?」
「よう見て下さい。”近日来演”って張り紙してありまっせ」
「なるほど、本人はそれも知らんと落語でもしてるんですやろな」
桂米朝 「地獄八景亡者の戯れ」
もうひとつ挙げられている桂文珍のものは、閻魔の前で特技の落語として「地獄八景亡者の戯れ」を披露し始めると、その話の中でさらに、「地獄八景亡者の戯れ」が展開されて…というM.C.エッシャー描く版画のような、「地獄八景」である。
それにしても、ドラマ「ちりとてちん」は面白い。あと、一週間で終わってしまうのが残念だけれど、本当に旨く美味しい「半年間ほどの短編ドラマ」だと思う。一見長く見えるけれど、短いショート・ショートの連作のような、実はそれが繋がっている一つの短編小説のような、そんな素敵な作りだ。
その内に、これを十八番の持ちネタとして新しい「地獄八景」を作ってくれる人が出てくることでしょう。
何ヶ月かすると、このドラマのことも忘れてしまうかもしれない。けれど、何かの折に受ける印象・する選択に、どこかで影響を与えたりしてくれたら良いな、と思う。
2008-04-03[n年前へ]
■「NHK連続テレビ小説」 と「11PM(EXテレビ)」
NHK連続テレビ小説「ちりとてちん」が終わった。こんなにNHK連続テレビ小説を楽しみに・待ち遠しく観たのは、「ふたりっ子」以来だ。
NHK連続テレビ小説と言えば、東京制作と大阪制作が交互に行われているのが特徴の一つである。「ちりとてちん」は大阪制作の女性脚本家だったが、そういえば、「ふたりっ子」もやはり、大阪制作の女性脚本家という組み合わせだった。脚本が大石静だった「ふたりっ子」では、気の強い主人公と将棋の世界が魅力的だったし、脚本が藤本有紀の「ちりとてちん」は、いつでも弱気になりがちな主人公と、主人公を取り巻く人たち、そして落語の世界がとても魅力的だった。
そういえば、交互に「東京制作と大阪制作が交互に行われる」というと、「11PM(EXテレビ)」を思い出す。11PMは大橋巨泉(東京制作)と藤本義一(大阪制作)が交互に司会をする(もちろん内容の傾向もかなり違う)番組で、その後継番組だったEXテレビは、三宅雄二(東京制作)と上岡龍太郎(大阪制作)が交互に司会をする番組だった。どちらも、比べようもないくらいに大阪制作の方に、私はとても惹かれた。番組に詰まっている荒削りなアイデア・勢い、一見テキトーにも見える、けれど見るからに「その背景」へのこだわりと情熱を感じる(見せる)真摯な雰囲気がとても面白かった。
ひとつ、思うことがある。「ちりとてちん」にしろ、「ふたりっ子」でも、その結末をどこに置き、結末の先がどこに向かっているように見せるかは、脚本家自身が一番考えていることなのではないだろうか。
2008-04-07[n年前へ]
■「銀スクラッチ」と「夜空の星月」
「銀スクラッチ」と印刷の「見当違い」ではないけれど、どんな「銀スクラッチ」であったとしても、その下に描かれているものは、透けて見えてくるように思う。表面を眺め見た時に、何の違いも見えないように見えることがあったとしても、裏から光を当てたり見方を少し変えたりしてみれば、下に描かれているものは自然と見えてきてしまうことが多い。そういうことは多い。
手元にあったチラシの「銀スクラッチ」に白色LEDを背面から当ててみれば、どんな色のスクラッチ部分であっても、ハッキリと自然に透けて見えてくる。一見、色味がかった銀スクラッチの下にあるものは全然見えないように思えたとしても、やはりそれは透けて見えてくる。結局のところ、そういうものなのかもしれない、と思う。
(若狭塗箸で)研いで出てくるもんは、
この塗り重ねたもんだけや。
反射光と透過光は違う。だから、反射光では何の違いも見えないものがあったとしても、それが透過光で「違わず」見えるとは限らない。また、それと逆に、透過光では違いが見えなかったとしても、反射光では全く違うさまに見えることもある。
つまるところ、反射光と透過光は違うのである。他の光を返すものが反射光で、他の光を消さないものが透過光である。それは、似てもいるし違うようでもある。
反射光をたとえて言うならば、それは夜空の月や星に似ている。宇宙空間のどこかには太陽がいて、夜空の月や惑星はその太陽の光を反射しながら動いている。同じ夜空のどこかに、より強く光を反射するものがあれば、ほんの少しの光しか返さない小さな惑星を見ることはできない。そういうことは世界に多い、ような気がする。
人間も箸と同じや。
日常生活の中で、「明るい光」は必ず広がっていく。けれど、「暗さ」が広がることはない。「銀スクラッチ」を見るとそんなことを思い出す。そして、雨雲の向こうにあるはずの、夜空に浮かぶ星や月の姿をふと見たくなる。
一生懸命、生きてさえおったら、
悩んだことも、落ち込んだことも、
きれいな模様になって出てくる。
2011-01-27[n年前へ]
■「自分の中」や「できること」が見えますか?
何年か前のNHK朝の連続ドラマ、「ちりとてちん」のDVDを借りて、ノートPC で眺めていると、こんな台詞が聞こえてきました。
「自分の中にないもんやろうとしたらあかんで。
「できるかわからないこと」を引き受けるかどうか考えるとき、「それをできるか」どうかをということに頭を悩まされると同時に、「それが自分の中にあるか」ともついつい考えてしまいます。なぜかというと、「自分の中にないもの」をしようとしても、どうしても、いつか気持ちが続かなくなって・・・、結局できなくなってしまうからです。
「できること」と「自分の中にあること」は違います。「何かをできるか」ということと「その何かが自分の中にあるか」ということは、決して同じことではないのだろうと思います。「自分の中にあるけれど、できないこと」ということもあるのかもしれませんし、「自分の中にないのに、できること」ということも、もしかしたら、あるのかもしれません。「ずっと、できなかったことなのに、いつかできるようになる」こともあるかもしれないと思ますし、「今はできても、ずっと続ける気持ちにはなれないこと」だって、あるのかもしれません。
「自分の中」や「できること」は、見ることができるのでしょうか。それとも・・・見ることはできないものなのでしょうか。
さてさて、今日のタイトルはテレビドラマ「不揃いの林檎たち」のサブタイトル意識です。この記事の「関連お勧め記事」を読み進めると、色んなテレビドラマや、そのサブタイトルが浮かんでくるかもしれません。