2006-11-14[n年前へ]
■『なぜ、「できる人」は「できる人」を育てられないのか?』
先日読んだ『なぜ、「できる人」は「できる人」を育てられないのか?』は、なかなか読みづらい本です。
まず、何より買いづらい本です。なぜかと言えば、「できる人」でないと買いづらいような気がしてしまうからです。しかし、そんなことを考える必要はありません。誰しも、一つくらい自分が得意なことがあったりする、と思うからです。自分が得意なことを苦手な人を「できない人」だと考えていることを自覚していないよりは、自分が(ごく限られた領域であったとしても)「(できない人とのディスコミュニケーションを生むことがある)できる人」だと自覚した方がいいことでしょう。だから、自分が「できる人」でないと考えて買うことを躊躇しなくても良い、と思うのです。
次に、この本に書いてあることを素直に読み進めていくということも、(最初は)結構辛いとも思います。なぜなら、読んだ最初の瞬間には「そこまで、できない人の立場に沿って考えなきゃいけないのだろうか?」という気持ちになるだろうから、です。一言で言えば、「そこまでやってられない!と感じ、頭に血が上ってしまいそうになる」のです。けれど、時間をかけて、例えば一晩くらい時間をおいて、頭を冷やしつつ落ち着いて読んでいけば、「あぁ、そういう風にしていった方が、色々なことが良くなっていくのかも知れない」と腑に落ちるとも思います。
本の終わり近くの「宣伝」のような部分を除けば、とてもお勧めの本です。冷静に読んで内容が腑に落ちたら、(とくに手元に残しておく必要もない本に思えますので)誰かにあげてしまうのも良いかもしれません。
2007-05-04[n年前へ]
■「現実世界」をコミック調にする
撮影映像のアニメーション化
実際の映像を、絵画・イラストレーション・コミック調に加工処理した映像がたまにあります。たとえば、古いところでは、A-haの「Take on me」のPVなどがありますし、最近では、キアヌ・リーブスが主演したアニメーション映画「A Scanner Darkly」などもそうです。好き嫌いがわかれそうですが、画像が単純化されたイラスト・マンガ風に映し出された世界にはやはり目が惹かれてしまう、という人も多いことでしょう。
かつては、カメラで撮影した映像を1コマごと手作業でなぞる(参考:ロトスコープ)ことも多かったと言いますが、A Scanner Darkly の場合などでは、ボブ・サビストンが開発した Rotoshop が、実写をアニメーション化する際に活用され、撮影・作業工程がいくぶん楽になったとも言われています。
デジカメで撮影した写真といった静止画像を各種イラストレーション調にするソフトウェアは数多くあります。また、動画処理ソフトウェアでも、ポスタリゼーション(減色処理)などの特殊効果を組み合わせれば、動画をイラスト風にすることができるものもいくつかあります。先日作成した、画像加工サービス Imagination You Make でも、各種絵画調に画像を変えるような処理が含まれていましたが、その中のイラストレーション調に画像を加工する部分などは、実は動画にも対応しています。Imagination You Make というWEBサービス 自体はJPEG画像のアップロード・加工にしか対応していないのですが、画像を処理・加工する部分に関しては動画の入出力(もちろん加工処理も)もできるようになっています。
「二次元レッシグ」を作る
Imagination You Make の「イラストレーション処理」の使用例は、たとえば次の2枚の画像です。
左の1枚目の写真が実際の画像で、それに対して「イラストレーション化」をかけたものが右の2枚目の画像です(*)。「イラストレーション化」処理は、「カラー版画化」処理などと違って、輪郭線強調の度合いが小さいので、コミック調という感じではありませんが、それなりにイラストレーション風になっているのがわかります。
動画映像に「イラストレーション化処理」をかけてみた時に、どのような映像に見えるか・映像に対してどのような印象を持つかを知るために、今回、スタンフォード大学ロー・スクールのレッシグ教授のインタビュー映像に対してイラストレーション化処理をかけてみました。右のGIF画像はその結果です。QuickTime形式の動画ファイルは le.mov (16MB) になります(*)。ほんの数秒のアニメーションですが、実際の映像よりもずいぶん単純化されて、実写とは異なった雰囲気を感じます。長時間眺めると目が疲れてしまうそうな気もしますが、たとえばCM映像のようなごく短時間の映像であれば、一種独特に抽象化された世界を味わうことができるかもしれません。
現実世界のコミック化
Podcast の音声部分をテキスト化するサービスはすでにあります。また、Imagination You Make のように、デジカメで撮影された画像中をコミック調にしたり、顔抽出を行い、適切な部分に吹き出しをつけることができるWEBサービスもすでにあります。こういった技術を組み合わせることで、Podcast などで配信されている実写映像をマンガ風・コミック調アニメーションにしたりするといったことは、ごく近いうちに実現できることでしょう。
よくある街並みを撮影した映像や、よく知っている人たちが写っている映像をコミック調・イラストレーション化したら、どのような世界が見えるのでしょうか。そんな世界を眺めたら、どう感じるのでしょうか。アニメーション・映画作成会社でない普通の人でも、「ちょっとアニメーションを作ってみる」ということができたら面白いかもしれません。ちょっと作ってみたたくさんのアニメーション中から、いくつかの新しいものが生まれてくるかもしれません。商業的な映像を作り上げることは難しいかもしれませんが、「ちょっとアニメーションを作ってみる」ということは、もう簡単にできるようになっているのかもしれません。
* 使った素材は、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]によるHIVE インタヴュー・シリーズ 01:ローレンス・レッシグ のインタビュー映像です。そのため、上記映像をもとに作成された3枚の画像、および、QuickTime 映像はクリエイティブ・コモンズ 非営利-継承ライセンス になります。
2007-07-01[n年前へ]
■旧約聖書と「あぼーん」
先日、「文学を科学する」という本を読んで、こんな一節に惹かれた。
文章は書かれて発表されたとたんに、書き手の所有物ではなくなるのです。この一節を読みつつ、ふと、巨大掲示板 2ちゃんねる の「あぼーん」という言葉を思い出した。問題がある発言が書き込まれた時、書き込みの題・内容・日時などがすべて 「あぼーん」と書き換えられるシステム、その「あぼーん」の語源を考えた時に考えたことが蘇ってきた。
(その一方)作者の手を放たれたテキストは読者の所有物になるのではありません。それは、…膨大な言葉同士の関係に入り込むのであって、つまり作者のものでも読者のものでもなくなるのです。
作者のものなら作者の解釈だけが唯一の真実ですし、読者のものならどんな恣意的な解釈も可能です。しかし、それが作者のものでも読者のものでもないからこそ、文学作品は常に新しい読み方ができる、いいかえれば繰り返し読むことに耐えられるものになるのです。
「文学を科学する」 P.65 - 66
投稿者の力が及ばない権限者が行う削除行為から、2ちゃんねる外の自分の発言やアカウント、またクルマやパソコンなどの私有物への表現にも使われ、あらゆる事柄に存在する「破損」「消失」「死」についての婉曲表現として「オレのPCがあぼーんした」などと動詞的に使われるようになった。
はてなダイアリー あぼーんとは
あぼーんの語源を検索すると、"a bone" (骸)という説や、マンガ「稲中卓球部」のセリフという説など、さまざまな説が出てくる。もしかしたら、作り手"ひろゆき"が異なる語源を語ったのかもしれないし、あるいは、たくさんの読み手たちが新しい解釈を、いつの間にか作り出していったのかもしれない。そんなたくさんある"あぼーん"の解釈の小さなひとつ、私が考えた"あぼーん"の語源は、こんな話だ。
いつだったか、旧約聖書の解説書を読んだ。そして、創世記 第四章 「カインとアベル」の中に出てくるカインの過失・罰を意味する言葉が、本来のヘブライ語の聖書では「アボーン」という言葉だったということを知った。兄カインが弟アベルを殺した罪、その罪が故に、安住の地エデンから「エデンの東」へ追放されたことなどを一語で表現しているのが、ヘブライ語の「アボーン」である。その言葉を見たとき、これはまるで2ちゃんねるの「あぼーん」のようだ、と感じた。問題のある発言を掲示板の外へと移動させる「あぼーん」と、ヘブライ語「アボーン」は、三千年も時を隔てているけれど、不思議なくらいよく似ている。
初めに言葉があった。
万物は言葉によって成った。
言葉によらずに成ったものはひとつもなかった。
新約聖書 ヨハネ福音書
「文学を科学する」を読んだ頃、「インターネットのコメント・システム、異なる人たちが、時事についての意見を書き込むような場」から何が生み出されるのか、あるいは、どんな問題が起きてしまうのかを考える文章をよく見かけた。そういった文章を読みながら、同じ時期に旧約聖書と「あぼーん」について考えていたせいか、なぜだか思い出したのが、「全体は部分の総和以上のものであるか?」という、こんな文章である。
聖書は部分の総和以上のものであるか?
もちろん。
さまざまな物語や詩、それに異なるものの見方の混合が、個々の作者の夢にも思わなかったものを産み出した。
「旧約聖書を推理する—本当は誰が書いたか」
R.E.フリードマン P.323
2007-09-06[n年前へ]
■関西のオバチャンになりたい
台風が日本列島に接してくる最中、品川駅から新幹線に乗る。三人掛けの席の通路側に座ると、隣の二人は、関西の何処かに帰る年配の女性2人だった。その二人の会話のペースに、聞き入ってしまった。
その最大の理由は、相手がコトバを発してから、それに対する応答がいつでもコンマ1秒以内になされてる、ということだ。コンマ1秒以上沈黙する時間はない。どんな形であれ、いつでも十分の一秒以内に、何かの相づちが入っている。そのことに、聞き入ってしまった。
以前、英語の研修を受けた時、「相手が言葉を発してから、1秒以上反応しないのは、英語としてはコミュニケーションが全くできていないということだ」と言われた。あぁ、関西のオバチャンになりたい
2008-04-09[n年前へ]
■「透明下敷きボード」と「原始的"Mixed Reality"」
「ホワイトボード」に「ラクガキ」をするで書いたように、小さなホワイトボードと色ペンをいつも持ち歩いています。大きなかばんには大きなホワイトボード、小さなバックパックには小さなホワイトボードが入れているのです。また、(もしも「白い板」だけをホワイトボードと言うのなら)さらにホワイトボードではないものも持ち歩いています。その一つが、透明なボード(透明下敷きに特殊加工シートを貼ったもの)です。
僕は考える。
そしてペンを持つ。
思いついたままノートに、
らくがきしてみる。
ウルフルズ「大丈夫」
といっても、実際のところ、この「透明なボード」はあまり役に立ちません。数少ない「役に立つ」場合のまず一つ目は「デッサン力がない人が、目の前の景色をスケッチしたい」という状況です。透明なボードを目の前の景色に重ねて、目に映る景色をボードに上にトレーシングするだけで、誰でも簡単に遠近・透視法ばっちりのスケッチを1・2分で描くことができるわけです。「どんな感じ」かは、下に張り付けた動画を眺めてみれば、きっとわかることでしょう。
左の上の動画は、現実の景色に「スケッチをした透明プラスチックボードを重ねてみたもの」ですから。”現実に人工の描画を重ねた”一種の「MR=Mixed Reality(複合現実)」と言うこともできるかもしれません。以前作った、「マンガの「吹き出し」型ホワイトボード」(他人や自分の心の中にあるイメージ・言葉を描き出すことだってできる優れものです)も、人力複合現実を使ったマンガ的コミュニケーション・システムです。
人力複合現実(MR)を描きながら、最先端技術を超原始的手作業で実現してみたり、超原始的作業を高度な技術を使ってマネしてみたりするのも楽しいのかな、とふと思ったのです。
誰もが胸にしあわせな世界の
イメージを描いて暮らす。
うまくはいかなくても、
まずは一歩ずつ。
答えはひとつじゃないから
ウルフルズ「大丈夫」