2006-08-05[n年前へ]
■グラフで眺める「亀田興毅v.s.ランダエタ戦」
「亀田2—1で判定勝ち、王座獲得…WBA世界ライトフライ級王座決定戦」に掲載されていた採点表を元にグラフを作って、亀田興毅 v.s. ファン・ランダエタ戦を眺めてみました。まず、右側が「ラウンド毎の各審判の採点を棒グラフにしてみたもの」です。数値は「亀田ポイント - ランダエタ・ポイント」なので、0を境に上が亀田優勢で、0より下がランダエタ優勢です。特に何の傾向もないように見えます。
そこで、次のグラフは「各ラウンドまでの、それぞれの審判のポイントを積算したもの」です。つまり、右上のグラフを順次積算していったものです。このグラフも、0を境に上が亀田優勢で、0より下がランダエタ優勢となります。(ボクシングのルールはよくわからないのですが)最終的には、12ラウンド時点で、0より上にいる各審判がの数と、0より下にいる審判の数で勝敗が決まるわけですね。で、このグラフを見ると、何やら審判の「動き」に傾向があるように見えてきます。例えば、金光洙・タロン組とパディージャ組に分かれてる?とか…いえ、もちろん、単なる先入観なんでしょうけれど…。それにしても、最終ラウンドで「金光洙の黄色ライン」は下に下がってしまったら、0になって引き分けになっていたんですね。
2006-08-27[n年前へ]
■「心の狭さの法則」と「苦手なメール」
私は元から心が狭い。しかも、その「心の狭さ」は忙しさの三乗に比例して、さらに狭くなるようだ。「自分自身を客観的に眺めるのは難しい」ということも事実である。しかし、客観的に眺めなくとも「おぉ、(この瞬間の私は)なんて心が狭いんだぁ」と自分で思うくらいだから、「忙しさの三乗に比例して、心が狭くなる」ということも、また事実であるように思う。
忙しさに追われて心が狭くなっている時、一番苦手なのが「メール」だ。とくに、「何かの催促や要求をするメール」である。忙しい時にそういうメールが増えてくると、やる気が減衰し、作業の能率が低下してしまいさらに忙しくなる、という魔のスパイラルに陥ってしまうのだ。というわけで、最近では、「"再送"という文字が題名に入っているようなメールは、自動的に削除する」という仕分けルールを適用し始めてしまったくらいである。実に心に余裕がないダメダメ人間だ。
とはいえ、「何かの催促や要求をするメール」はとても苦手なのだけれど、「事務的に淡々と書かれている仕事の催促メール」は心から苦手というわけでもない。心から苦手なのが、特に苦手なのが、「個人としての送り手の事情を催促の理由として書いてある、催促・要求メール」で、そんなメールの送り手には、確率100%で「憎しみ」すら沸くほどだ。先日、リリー・フランキーとナンシー関の対談文を読んでいる時に、同じような内容が書かれていた。100%同意のココロだ。
この間も、若い女の編集者が延々とFAXで「こちらがどれだけ困っているか、おわかりのはずです」とか書くわけ。そういう攻撃されると、サラ金に毎日取り立てられてた頃思い出してブルーになる。「困っているんですけど」って言われても困る。 「リリー&ナンシーの小さなスナック」
2007-07-11[n年前へ]
■正義とJustice
from セブン・イレブンの今日のn年前へ.
「義」、確か中国語で、足りない物を補う、という意味じゃなかったかな。義手とか義足とか それから考えると、正義という意味は、正しい事が足りない状況に於いて、「正しさを注入して不均衡を均衡に戻す」って事じゃないですかね?
島本和彦のマンガで何人もの正義のヒーロー(ヒロイン)達が偶然出会い、「正義って何だ」と夜通し議論する話があった。 「オマエの-正義-は私怨じゃないのか」とか「オマエの正義は単なる俺ルール」だろう、とか。そして、最後にそれぞれの正義を持ちつつ、「いつかまたな」と別れていく話である。
だとするとやっぱり、正義とJusticeはちょっと意味合いが違うかな
2007-09-13[n年前へ]
■「理系」と「化けもの」
「それのどこが未踏なんですか?」という뿉떿쳤ꓤ죣좽꒬ꓞ꒹ꆣ人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。
宇宙は永久に怪異に満ちている。しかも、私は記憶力が悪い。だから、次に書く言葉も多分間違っている。そして、自分の都合の良いように、きっと書き換わっている。だから、きっと間違っていることが、次に続く。
あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻物である。寺田寅彦の葬式で、誰かが「君はとても孤独な人だった」というようなことを言った。
化け物の出入りする世界は科学の世界である。今では、寺田寅彦が書いた随筆をたくさん簡単に読むことができる。青空文庫でも、それ以外の場所でも、たくさん読むことができる。
化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。けれど、寺田寅彦を書いた随筆を辿ることは、この瞬間の青空文庫からは、まだできない。
それをひもといてその怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。そんな随筆を辿ると、寺田寅彦が書く科学の書物や芸術の書物の中に寺田寅彦が見ていた景色、人によってはそれを化け物と呼ぶだろう景色が浮かび上がってくる。そんなものを化け物と呼ぶ人もいるだろうし、人によってはそれを人生と呼ぶこともあるだろう。あるいは、人によっては、それが"世界"だと言うかもしれない。
あらゆる科学の書物は同時にまた芸術の世界でもある。「根っからの理系人間を自認する人には使えない言葉」でも「定量的に評価不能じゃないですか」と突っ込まれる表現でも、きっと社会や人生は根っからの理系世界でも定量的に評価可能な世界でもない世界にはそんな見方・現し方ことふさわしい。だから、
ぼくが恰好悪いと感じるだけで作る理由としては充分じゃないですか。だから、他の何の誰かの名前を借りた理由も頼るわけでなく「ぼくが恰好悪いと感じるだけで、作る理由としては充分じゃないですか」という言葉はシンプル、かつ、綺麗に響く。たぶん、これ以上綺麗なものはない。それを、他の何の誰かの名前を借りて表現しようとした途端、綺麗でなくなるように思う。
ぼくが恰好悪いと感じるだけで、作る理由としては充分じゃないですか。他の何の名前も借りず、他の何のルールも借りず、自分自身の言葉で書く「ぼくが恰好悪いと感じる」ということ、その正しさは、本当にシンプルで綺麗に響く。それを、社会が追いかけるかどうかは別にしても、その言葉は、本当にシンプルに綺麗に響く。
人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。そして、その人の中の真実でしかない「人の記憶・人の過去や経験」は自分の都合の良いように変わり、そして新たな未来が形作られて行く。
人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。人の未来は、人が作る。
2007-10-25[n年前へ]
■「フラクタル」な「リベロ」
ブノワ・マンデルブロが描いたフラクタル図形のように、どんなに小さく狭い場所にだって、広い世界の縮図が詰まっているんだ、と感じることがあります。 from 「エンジニアよ! 女子バレーの魅力と科学にハマれ」
私は人をうらやましいと思ったことがありません。人をうらやむ時間があったら私は走りたい。 吉原知子女子バレーボールのことを調べた時、気になったのは「リベロ」というポジションでした。「自由」を意味するリベロ、他の選手とは違うユニフォームを一人着て、レシーブを続けるリベロ、そんなポジションは、昨今とてもよくある姿です。
極端に言えば同じタイプの選手は必要ありません。そのために12人がいるのです。 吉原知子また、ローテーションという「自分の得意でない役割を担わなければいけない期間がある、というルール」、自分の得意なことだけを続けられるわけではない、という、広い世界や長い人生の縮図のようなルール、も興味深く感じました。
やめることは簡単で、続けることは難しいと思います。また、悪い環境ほどチャンスであって、ここで頑張れるのが強い人だと思うんです。 吉原知子