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2008-04-10[n年前へ]

江國香織の「情緒」と「論理」 

 落語のことを江國滋が語る本を読みたい、と思っている。けれど、残念ながらまだ読むことができていない。けれど、いつか「落語手帖 」「落語美学 」「落語無学 」といった江國滋が落語について書いた本を読んでみたい、と思っている。

 江國滋の長女である江國香織(今では、江國滋が「江國香織のお父さん」と言われることの方が多くなってしまったくらいだ)が書く言葉は本当に素敵だ。情緒と論理が過不足なく絶妙に混じり合い、不思議なほど心に小気味よく響くリズムで、江國香織は言葉を書く。

 たとえば、この文章はどうだろう。

 なるほど数学的思考をするひとだ、とすぐにわかった。言葉の一つ一つに、必ず論理的必然性というか、原因と結果が備わっている。双六風に正確に一歩づつ先にすすめていく話し方だ。それも、聞き手がとりのこされないように丁寧に、きちんきちんと手順を踏んで。

  たゆまぬひと - 公文 公さん「十五歳の残像
 一片の隙間もないほどに、緻密に言葉が積み上げられているのに、江國香織が書き上げる文章は、奇麗なリズムで音が叩かれ・刻まれていく。数学的で、論理的で、必然性と因果性に満ちていて、そして丁寧で優しくみえる。

 子供がそのまま大人になったような人、という言いまわしがありますが、あれは変だと以前から思っていました。誰だってみんな子供がそのまま大人になるわけで、それはもう単純に事実だと思うからです。

2009-04-12[n年前へ]

読む人が真似をしたくなる江國香織の「作文術」 

 江國香織の文章は、本当に的確で、読んでいるととても気持ちが良くなる。文字をそのまま追っていくだけで、書いてあることが「すぅっと」頭の中に収まってくるし、それでいて何度読み直しても新鮮だ。

 江國香織が22人のインタビューイに「子供のころの話」を聞き、それを文章にした「十五歳の残像 」を読むと、そんな感覚をどの頁・どの行からも感じることができる。たとえば、 「すとん、と伝えるひと――――安西水丸さん」ならこうだ。

 理屈では説明できないこと、というのがある。とても簡単なことなのに――――とても簡単なことだから、と言うべきかもしれないが――――、説明はできない。
 たとえば。
 わかります、と、私は思わず声を大きくしてしまう。一体何がわかったのか、どうわかったのか、はよくわからないままに。
 なんの理屈も説明もなく、ただすとんと胸におちてくる。
 江國香織の文章には、とてもわかりやすく納得させられてしまう。そして、不思議に心地よい。

 江國香織の文章の恐ろしいところは、彼女の書いたものをよむと、その江国香織の「文の調子」「文体」を無意識のうちに真似しようとしてしまうことだと思う。もちろん、そんなことは誰にもできない、のだけれど。

十五の頃、いちばん恥ずかしいと思っていたこと 

 江國香織 「十五歳の残像 」から。

 十五の頃、いちばん恥ずかしいと思っていたことは何ですか、と訊いてみた。安西さんのこたえは「人をおしのけたり自己主張したりすること」
 じゃあいまいちばん恥ずかしいことは、と訊くと…

「すとん、と伝えるひと――――安西水丸さん」

2009-04-13[n年前へ]

「表現」と「矛盾」 

 江國香織 「十五歳の残像 」から。

 そりゃあどんどん矛盾していくよね、と、甲斐さんは言った。…
 でも、と言って、甲斐さんは私の顔を見た。「でも、表現するということはそういうことでしょう?イメージをある程度限りある形で強く打ち出していく、というのが表現ななんだから」
 あまりにも正しかったので、私はちょっと黙ってしまう。

「アンビヴァレンスのひと――――甲斐よしひろさん」

2009-04-14[n年前へ]

「時に、無神経でいられること」 

 江國香織 「十五歳の残像 」から。

 十五のころといまとで、いちばん変わったことはなんですか、と、最後に訊いた。宮本さんは少しだけ考えて、
 「無神経でいようと思ったら、いられるようになったことかな」
 とこたえた。丁寧な口調で。

「やわらかく強靭なひと――――宮本文昭さん」



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