2002-07-06[n年前へ]
■涙いっぱいの25mプール
二十年かかる「プール開き」
最近、霧の日が続いている。日中生活している場所が、「箱根の中腹」というとても霧に覆われやすい場所であるせいもあるだろうし、梅雨真っ盛りという今の時期のせいでもあるだろう。あるいは、その他にも何かの理由でもあるのかもしれない。とにかく、日中は深い霧に覆われてしまう涼しい生活が続いている。
そんな中、朝や昼に草むらの中で足下に生えている色んな葉っぱを眺めていると、それぞれの葉っぱにたくさんの水滴が乗っかっている。そしてまた、水滴がそこからいまにもこぼれ落ちそうになっている。まるで、草が大粒の涙をこぼすのを必死にがまんしているみたいだ。
こんな、いかにも涙をこぼすのを我慢しているような草を眺めていると、こんなたくさんの草達がいっせいに大粒の涙をほろほろと流したとしたら、そしてもしその草達がこぼす涙をプールにでも貯めてみたとしたらどうなるだろうか?とふと考えた。あっという間にそのプールは涙で一杯になってしまいそうな気がするし、結構時間がかかるような気もする。
そしてまた、こんなこともふと考えた。草でなくてもいい、人がほろほろこぼしている涙をもしもプールに貯めてみたとしたらどうなるだろう?そのプールが涙で一杯に満たされるには、一体どのくらいの時間がかかるものなのだろうか?
目の時点・眼の構造によると、眼からほろほろ溢れ出すような涙一粒の量は約0.2ccだと書いてあった。ということは、大きさで言うと直径0.7mm位の球になるだろうか。かなり大粒のような気はするけれど、とっても大粒の涙だったらそんなものかもしれない。
とても哀しかったりして、ほろほろと涙が目から溢れ出すとしたら、その涙の粒は一体どの位の時間間隔でこぼれだしてくるものなのだろう?それはちょっとよく判らないから、ここでは仮に一秒に一粒の涙をほろほろとこぼすことにしてみよう。もちろん、人間には二つの眼があるから一秒に二粒の涙をほろほろと流すことになる。
すると、大雑把に25mプールの幅を10m、深さを1mとしてみると、その25×10×1m3を一杯にするには、
(25×10×1 ×1003) /( 0.2×2×60×60×24×365) ≒20で大体20年弱かかることになる。
だから、何処かで誰かが涙をほろほろ溢れさせていて、その人は二十年近くの間涙をぽろぽろとこぼし続けいているとしたら、その人のかたわらには、いつの間にか涙で満たされた25mプールができあがることになる。その人が流した「涙のプール」のできあがりだ。二十年かかってやっとその「涙のプール」の「プール開き」ができることになる。
もちろん、一時も泣きやまずに二十年近くの間涙をほろほろとこぼすなんてことはないことだろうけれど、そんなことを考えに入れた上でも、その人だけの「涙のプール」が二十年弱でできてしまうなんて、ちょっと意外だ。二十年という長さが短いような長いような不思議な感覚におそわれる。
そしてまたこんなことも考える。もしも、地球上の全ての人が大粒の涙をこぼしたとしたら、世界がいっせいに涙をこぼしたとしたら、この「涙のプール」はどのくらいの時間で一杯になるのだろうか?試しに、プール一杯の量を60億人で割ってみると、
(25×10×1 ×1003) /( 6000000000 ) ≒0.040.04ccとなる。両目からこぼす涙の量0.4ccのちょうど十分の一だ。だから、世界中のもしも十人に一人が両目からホロリと涙をこぼしたならば、その一瞬で「涙のプール」は一杯になってしまうことになる。
色んな場所で、色んな人が泣いている。小さな赤ちゃんが泣いて、その横で新米のお母さんがやっぱりほろほろと泣いていて、振られて泣いている学生もいれば、映画館でスクリーンを見ながら泣いている人もいる。きっと、ありとあらゆる場所で泣いてる人がたくさんいる。世界中の何百分の一か位はきっと泣いている人達だ。だとしたら、この「世界中の十人に一人が両目からホロリと涙をこぼしたら涙のプールのできあがり」というペースを考えると、これはもう世界中の色んな場所で「涙の25mプール」の建設ラッシュだ。そんな風に想像したりすると、色んな街角や林の中に隠れていたこんな「涙の25mプール」の姿が陽炎のように見えたりするかも、と想像してみたりする。
2002-07-07[n年前へ]
■ぼくのなつやすみ2 海の冒険篇
十年くらい前のJR東海の夏のCMがハックルベリー・エクスプレス。「それでさぁ、海は石垣のムコウだよね?違うよ、海は松林の先だよ。」このシーンではいつも涙が出そうになった。
きっとゲームはしないけど、7/11には買ってみよう。(リンク)
2002-11-30[n年前へ]
■漢字はゴシック、ひらがなは明朝
何十年と受け継がれてきた、漢字はゴシック、ひらがなは明朝という例の漫画フォント。なるほどなるほど、と思ったのである。ということは、細くかすれやすい部分もあって潰れやすい部分もあって、と印刷する方からすれば結構シビアなフォントかも。というわけで、調べてみるのだ。
で、お笑いパソコン日誌で紹介されている「コミック専用のフォント」というものがあったり、「まんが制作用混植フォント(漢字:角ゴシック,かな:明朝)を合成」なんていうのもあったり、キヤノンがFontComposerなんていうのも出していたり。まさに、灯台下暗し。
というわけで、「Macの見やすいOsakaフォントをWinで使おうプロジェクト」を眺めてみるのであった。TTSDKもあるし。
2002-12-07[n年前へ]
■いつかみた景色
今日はなにかしんどくて外へ出ていないので、いつか見た景色を。これは十年以上前の金峰山の麓。もうこの時は台風で景色が大きく変わってしまった後だから、今とあまり変わっていないと思うけど。
真ん中編で立ってるのが私。白樺林がとても好き。
2003-01-13[n年前へ]
■江戸から続く秘伝のタレ?
昔ながらのウナギが食べたい
最新記事:ガリガリ君のアタリは法律上限の2倍近い高確率だった!?
最近、少し貧血気味だったりする。こんな時はもちろんウナギを食べたくなるのである。美味しいウナギを食べたくなるのである。
そういえば、江戸時代から続く老舗の鰻屋などでは「ウナギを焼くときに使うタレは創業時から使い続けている」というように聞く。ウナギのタレを壷に注いで、使っては継ぎ足し、また次の日使ってはさらに継ぎ足して、二百年以上もその秘伝のタレを使い続けているということである。「ウチのタレは江戸時代から続くタレでございます」というわけである。なるほど、そんな風に保たれている秘伝のタレは長い間熟成され続けて、さぞかし美味しいに違いない。江戸時代から守り続けられているタレはきっと栄養だって満点に違いないのである。もしかしたら、ワタシの貧血だって一発で直ってしまうかもしれない。
ところで、「ウチのタレは江戸時代から続くタレでございます」とはいっても、もちろんそれは言葉通りの意味ではないだろう。その言葉が意味するところは、「江戸時代からの味の伝統を代々受け継いでいますよ」ということであって、言葉通りの「江戸時代にできたタレが目の前のウナギに塗られている」ということではないだろう。
とはいえ、そんな老舗のウナギを食べる方の心理からすれば「江戸時代の頃にできたタレが今でもその壷の中に残っているんじゃないだろうか?」と考えてしまったりもすることだろう。そして、二百五十年近く壷の中で熟され続けてきたそんな素晴らしいタレが自分の目の前のウナギにかかっているのではないか、と感じたりするに違いないのである。
果たして、そんな老舗の鰻屋の秘伝の鰻のタレの壷の中の何処かに、江戸時代に作られた「タレ」が今も潜んでいたりするものなのだろうか?江戸時代に調合されたタレの分子が、今も秘伝の壷の何処かに漂っているのだろうか?江戸時代にその壷に注ぎ込まれたタレに含まれている水分子(タレのほとんどは水だろう)が、今でもその壷の中でじっとワタシに食されるのを待っていたりするものなのだろうか?きっと、誰しもそんな疑問を持つことだろう。少なくとも貧血気味のワタシの頭はそんな疑問を持ったのである。そして、「江戸時代にできたタレの分子」をぜひとも食してみたい気持ちに襲われるのである。
そこで、江戸時代から続くような老舗の鰻屋の秘伝の「ウナギのタレの壷」の中に漂う「江戸時代にできたタレの分子数」を簡単に計算してみることにした。鰻屋が
- 創業時にある一定の容量の「ウナギのタレの壷」を満タンにして
- ウナギを食するお客一人当たり25ccほどのタレを使い
- 減った分を新しく作ったタレを注ぎ込んで補充し
- 壷の中身をよ~く撹拌して、次のお客に備える
赤:特大サイズの壷の場合 ( 容量3500リッター ) |
この結果を眺めると、中サイズの壷の場合は十年経たないうちに「創業(江戸時代)の頃にできたタレの分子」は壷の中からなくなってしまうことが判る。また、大サイズの壷の場合も七十年程でやはり同じように「江戸時代の頃にできたタレの分子」がなくなってしまっている。特大サイズの壷ではじめて、「江戸時代の頃にできたタレの分子」が今も壷の中に眠っているということが判るのである。
しかし、である。「じゃぁ、特大サイズの壷を使っている老舗の鰻屋に行けば良いのね」と簡単に納得してはイケナイのである。何しろ、この特大サイズの壷は容量が3500リッターもあるのである。つまりは、タレが重量3.5トンほども入っている超巨大な壷なのである。3.5トンの壷ってなんやねん、とツッコミたくなるもの当然の不自然きわまりない、ありえないようなサイズなのだ。それはほとんどほとんど貯水タンクと言った方が良いサイズなのである。つまり、言い換えれば普通サイズの壷を使う限りは「江戸時代にできたタレの分子」に出会うことはほとんど不可能だ、という結果になってしまうわけだ。非常に残念なのだが、「江戸時代にできたタレの分子」を食することはとても難しそうなのである。
とはいえ、それはあくまで毎日100人のお客が鰻を食べに来る人気の鰻屋の場合である。下に示すような、毎日2人のお客しか鰻を食べに来ない不人気の鰻屋の場合は少々事情が違うのである。特大サイズどころか中サイズの壷の中でさえ、ちゃんと250年経っても「江戸時代の頃にできたタレの分子」が残っているのである。ほとんど、客が来ず、そしてウナギのタレが消費されないがために、「江戸時代の頃にできたタレの分子」が必要十分すぎるほどに守られているのである。まさに「ウチのタレは江戸時代から続くタレでございます」なのである。
赤:特大サイズの壷の場合 ( 容量3500リッター ) |
と書いてはみたものの、そんな不人気店が江戸時代から二百五十年以上も潰れずに残ってるかぁ、とか、そもそもそんな不人気店のウナギをおまえは食べたいのかぁ、とか、そもそもそこまで寝かされているタレはもう腐ってらぁ、という反論異論が出ないわけはなく、やはり非常に残念なのではあるけれど、「江戸時代にできたタレの分子」を食することはどうもできそうにない。
ところで、「鰻のタレの壷」ではないけれど、「継ぎ足して使い続けている」ようなものは他にも世の中に数多くある。例えば、「血液」なんていうものだってそうだ。秘伝のタレと同じように、私たちの体の中には毎日毎日新しい血液が作り足されている。時には血液が足りなくなってしまったときに貧血気味になってしまったり、さらに血液が足りなくなってしまえば他の人の血を「輸血」という形で継ぎ足すようなことだってある。そんな風に、何処かの誰かから何処かの誰かへ輸血された血が、そしてその血の中の水分子が今どこに漂っているかをふと考えてみたりもする。そんな血液の中の水分子はもしかしたら、体から排出されてどこかの海を漂っているかもしれないし、何処かの空を漂っているかも知れない、そしてもしかしたら、まだ何処かの誰かの体の中で漂っているかも知れない。そんなことを考えてみたりもする。
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