hirax.net::Keywords::「構図」のブログ



2006-03-20[n年前へ]

「物語が作られる理由」と「虚無への供物」 

オウム/アレフの物語 - オウム・アレフ(アーレフ)の物語 - カミングアウト(改訂版) 今年1月までアレフ(旧 オウム真理教)の出家信者であったという松永英明氏が書かれたオウム・アレフ(アーレフ)の物語を、少しだけ読んだ。なぜ、「物語」と名付けつつ書くのだろうか、と不思議に思いつつ読んだ。なぜ、そんな風に不思議に感じたかというと、「物語」というのは結局のところ書き手のために書かれるものだ、という感覚が私にはあるからかもしれない。書き手自身、ないしは書き手と重なる何かを持つ人々に「物語」とが書かれて、そして届くことが多い、という単なる(あやふやな)経験則が私の心のどこかにあるからかもしれない。だから、「物語」と名付けられたこの文章が、誰に何のために書かれているかを、私は気にしてしまうのだろう。

まぼろしの五色不動 by 松永英明五色不動のワンダランド 前編 この文章を少し読み、さらにまた他の方の感想を少し読んでいるとき、私はどうしても、中井英夫「虚無への供物」をさらっているような気分になってしまう。まるで、「虚無への供物」に登場する青少年たちの台詞を読み直しているような気分に襲われる。理不尽なできごとや物語の作り手や読み手や…、今回、あまりに似通った構図・言葉・文章をさらい直しているような気分になってしまうのは、一体なぜだろうか。

 「物語」というのが我々の魂にとってどれほど強い治癒力をもち、また同時にどれほど危険なものであるかということを…  「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」

2006-05-05[n年前へ]

オリエンタルラジオ「武勇伝」と「北斎 浮世絵」構図の相似 

YouTube - Broadcast Yourself. オリエンタルラジオの「武勇伝」を観ていると、二人が形作る構図が北斎の浮世絵に見えてくる。構図の中にさまざまな「補助線」を引きたくなるような、独特奇妙な遠近感を感じるのは、二人の意図かそれとも熱のせいの妄想か…。
 それにしても、真ん中の「一枚目の瞬間」から一番右の「次の瞬間」の立ち位置・構図変化で、左の人物(中田敦彦)が「飛び出して大きく見させる」効果は実に素晴らしい。
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2006-07-10[n年前へ]

理系がハマりやすい「オウム的なもの」の危険性 

平林 純@「hirax.net」の科学と技術と男と女/Tech総研平林 純@「hirax.net」の科学と技術と男と女/Tech総研:理系がハマりやすい「オウム的なもの」の危険性 Tech総研ブログ「平林純@『hirax.net』の科学と技術と男と女」に『理系がハマりやすい「オウム的なもの」の危険性』を書きました。「絵文録ことのは」の松永英明氏を巡る出来事に対する印象を、もう少し素直に書いてみました。

松永氏がはてなグループというソーシャル・ブログシステムを使って「 オウム/アレフの物語 」と題した「物語」を書き始めたときに、 …それは、まさに「"高学歴"な人たちが、各種技術を使いこなす一方で、安易な考え・物語を信じる」という「オウム的な構図」を生んだ土壌にそっくりな風景が見え隠れてしている気がしたからです。

2007-07-10[n年前へ]

いろいろ 

 from n年前へ.

 それは、まさに「"高学歴"な人たちが、各種技術を使いこなす一方で、安易な考え・物語を信じる」という「オウム的な構図」を生んだ土壌にそっくりな風景が見え隠れてしている気がしたからです。
対象に触発され、知覚・感情・理性・意志活動・喜怒哀楽・愛憎・嫉妬となって現われ、その働きの有無が、「人間と動物一般」、また「敬愛・畏怖の対象となる人と憎悪・軽蔑すべき人間」を区別するものと考えられる。
 正義の女神ジャスティス は目隠しをして、右手に持った剣でバッサバッサと人を切り捨てる。そう言われてみれば、キャッチフレーズ通り「座頭市」は"Justice is Blind"に違いない。
ずっと昔にラブホテルでバイトしていた時に「特別室」にだけ置いてあった「立体テレビ」 故障中で観ることができなかったけれど。ちょっと観てみたかったな。

2008-11-25[n年前へ]

「範囲(スコープ)」が決まると「構図(レイアウト)」が決まる 

 目の前にある景色を絵に描こうとすると、「構図(レイアウト)」を決めることがとても難しいことに気づかされます。少し見る方向を変えるだけで、その瞬間に姿を変えてしまう景色を、つまりはありとあらゆる方向に広がっている世界を長方形の平面に描くという作業はとても難しい、と思うのです。

 特に一番難しいと感じることは、ありとあらゆる方向に広がる目に見える世界を適当な「範囲」に切り取る、という作業です。もしも、写真機を手に持っていたならば(あるいはデッサンスケールといった道具を使うならば)ファインダーを覗くだけで「世界を切り取る範囲」を確認することができます。けれど、そういった道具がない場合、目の前の景色は本当にありとあらゆる方向に広がっていて、その限りない世界をどのように切り取るか・どんな範囲で描くかを、自分で決めるしかないわけです。

 その切り取り方を決めるということ、言い換えると、「範囲(スコープ)」を決めるということをとても難しく感じてしまいます。「範囲(スコープ)」を一度決めてさえすれば、「構図(レイアウト)」はきっと自動的に決まると思うのですが、最初の「切り取る範囲・描く範囲」を決めるということが本当に難しくて、できなくて困ってしまうのです。

 もしかしたら、画を描くということだけでなくて、技術的な題材も「範囲(スコープ)を決めれば構図(レイアウト)は自然と決まる」ことが多いのだろうか、とふと考えました。描く(作る)ものの範囲が決まれば、その時に使うことができる技法で描かれるものの配置・繋ぎ方・作り方が自然に決まるのかもしれない、とふと連想しました。さて、実際は一体どういうものなのでしょうか。

ラクガキ








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