hirax.net::Keywords::「物理」のブログ



2008-02-14[n年前へ]

波が日本列島をノックする 

 「京都市は太平洋からも日本海からも、そのどちらにも同じくらいの距離に位置している」ことを知ったのは、学生時代に、地球物理関連のデータ計測に関する話を聞いている時だった。京都地殻の地面の奥底に設置された計測器のデータ解析をしようとするとき、太平洋と日本海の波によるノイズがそのデータ中に重なってくる、というような話を聞いた。

 一年を通じて15℃ほどで湿度が高い坑道の中で、紙に印字された測定データを眺めていても、遠く離れた太平洋と日本海の波が日本列島を叩き続けているようすは想像できなかった。けれど、きっと測定データには「海の波が日本列島をノックし続ける」ようすが映し出されていたのだろう。

2008-03-12[n年前へ]

私たちが乗った魔法の「ライブ・トレイン」 

 (高層ビルを消したり・出現させたりすることができる、という)「高層ビル消滅(消灯)マジック」を読んだ人から、メールを頂きました。そこに書かれていた風景・その人 たちが見た出来事がとても素敵だったので、そのメールを(許可を得て)書き写させて頂きます。

 「高層ビルを消すマジック」を読み、不思議なほどそれと似た景色を眺めたので、その出来事を書かせて頂き ます。
 私たちは、ライブ(Live) R35という コンサートを、名古屋から東京国際フォーラムにまで見に行きました。1990年代初頭のヒット曲を集めたコンピ レーションアルバム R35 のヒットを記念して行われたコンサートを見に行きました。
 1990年代初頭、つまり、15年くらい前の曲が詰まったR35は私のiPodにも入っています。
 開演時間が過ぎても、空席もあちらこちらに見える中、深くリバーブがかかったストリングスと堅い音色のシ ンセサイザが奏でるclassの「夏の日の1993」の前奏が鳴り出しました。東京国際フォーラムという大きな会場で したが、一人の観客も立ち上がったりしませんでした。私もそうでしたが、音楽を聴きながら・その時代を感じ 、そこで立ち上がる必要も、立ち上がることもできなかったのだと思います。何しろ、R35=35歳以下禁止の、あ の時代を共有する人たちですから。

 中西圭三がWomanを歌い始めた頃には、空席も既になくなっていました。そんな席は、仕事場から駆けつけた背広姿の人たちや、急いで駆けつけたことが目に見える女性たちが、そんな席を埋めていました。そして、ステージの上の人たちも会場に座る人たちも、あの頃の唄を歌っていました。当時、中西圭三は久保田利伸に似ていたような気がするのですが、今では「オーラの泉の人」にそっくりになっていました。
 私も、当時は中西圭三と久保田利伸との区別がよくわからなかったような気がします。それにしても、「オーラの泉の人」似というのは本当でしょうか。「まるで別人のプロポーション…」ですね。
Woman
君が探してる未来は
君の中にあるよ

  中西圭三 Woman
 ライブの最後は、槇原敬之でした。彼が、
 ぼくが唄の好きなところの一つは、”唄は変わらない”ってことだと思うんだよね。時代が、歌う人が、色ん なものが変わったように感じられても、唄は変わらないじゃない?それって、すごいことだと思うんだよね。そ んな変わらない唄に、僕は励まされたりして、だから、唄を歌おうって思うんだよね。
と(あぁ高槻出身だなぁ)と感じさせる関西弁で喋っているのを聞きながら、その少し前に演奏された中西圭三 作曲のChoo Choo TRAIN、ZOOやEXILEが何度かヒットさせたChoo Choo TRAINの興奮が蘇りました。
 35歳以上の会場の人たちが、みんな立って手を叩いたり、体を揺らしていた瞬間を思い出しました。ヒットした時代も、それを歌う人も変わったりもしつつ、けれど、やっぱり、変わっていないものもあるのかもしれない、と思ったのです。
 30代後半、40代の人たちといっても、みんな、若い頃にChoo Choo TRAINを聞いているんですものね。それにしても、Choo Choo TRAINは、中西圭三が作曲されていたとは知りませんでした。
Fun Fun We hit the step step
同じ風の中 We know We love Oh
Heat Heat (The) beat's like a skip skip
ときめきを運ぶよ Choo Choo TRAIN

   Choo Choo TRAIN
 確かに、Zooが歌うChoo Choo TRAINや、同じ風や、一言で言えば、同じ時代を私たちは歩いてましたね。
 槇原敬之が、
 このコンサート・このアルバムは「あの頃に帰りたい」というものじゃ決してない、と思ってる。「あの頃と同じように前に進んで行こう」というものだと、思ってる。ねぇそうだよね?
というようなことを言って、コンサートの最後の最後は、全員による「どんなときも」で終わりました。
 本当に、「どんなときも」のイントロが流れてくると、当時のカラオケボックスを思い出しますね。「あまりにも、バラード過ぎて」歌いづらかったような気もしつつ、それでもやっぱり歌ってしまったりもしたあの頃を思い出しますね。
どんなときも どんなときも
迷い探し続ける日々が
答えになること僕は知ってるから

  槇原敬之 どんなときも
 名古屋に戻るために、私たちは東京駅へ急ぎ、名古屋行きの最終22:00発「ひかり」433号に乗り込みました。乗り込んだ席は、1号車の向かって右側の席です。一言で言ってしまえば、ライブ(Live) R35が行われていた東京国際フォーラムが見える方の席です。余韻を感じたかったので、そんな席を選んだのです。
 そして、最終「ひかり」433号が発車するベルが鳴り始めました。そして、その発車ベルが鳴り終わった瞬間に、不思議なことが起こりました。もうおわかりだと思いますが、目の前の高層ビルが消え始めたのです。そして、不思議に消滅した後に、チラチラと再び点灯し現れるビルの光に送られながら、新幹線は走り出しました。私は正確な時計も、ビルの消灯時間も知らなかったわけですが(記事を読む前でしたから)、偶然にもその「魔法」を素晴らしいタイミングで見ることができたわけです。
 今、調べてみると、東京駅始発で22:00ちょうどに発車する列車は最終の名古屋行き「ひかり」433号だけなんですね。高層ビル消滅(消灯)マジックに合わせて鳴るアラーム・同時に発車する列車は広い東京駅でもただ一本だけなんですね。しかも、その先頭(の方の)列車の右窓側シートでないと、きっとあの消滅マジックを見ることはできないでしょうね。それはまるで、松本清張の「点と線」のような、ほんの一瞬の「そこだけで起こる魔法」ですね。
 その後は、すぐに寝てしまったこともあり、終点の名古屋に着くまでの記憶はありません。名古屋に着く直前に流れたチャイム音、TOKIOのAMBITIOUS JAPAN!を聞いて目が覚めたのですが、何だかそれはライブ(Live)の続きのような、あるいはライブ(Live)の最後のようにも感じました。
 そういえば、東海道新幹線は終着駅に着く前に、TOKIOのAMBITIOUS JAPAN!が流れますね。 (その前に使われていたチャイムメロディから)あのチャイムに変わった頃は、TOKIOもまだ若かった気がします。今では、彼らもR35になっているんですね。
たとえて言えばロング・トレイン
風切り裂いて走るように
未来に向かってまっしぐら

  TOKIO AMBITIOUS JAPAN!
 「時は流れていく、と君は言うかもしれない。けれど、動いていくのは時間でなく私たちの方なんだ」という言葉を、何かのSFか、あるいは物理学の本で読んだことがあるような気がします。その日、東京国際フォーラムにいた人たちは、みんなそれぞれ時間の中を走り続ける、そんな長距離列車に乗っているんでしょうね。

2008-04-24[n年前へ]

「困ります、ファインマンさん」と「他人がどう考えるか一体何を気にしてるの?」の違い 

 一冊の本の内容を短くまとめると、「あらすじ」になり、本の内容を限りなく短く一言で言えば、それは「タイトル」になる。
 物理学者ファインマンの人生を描いた本というと、「ご冗談でしょう、ファインマンさん」 「困ります、ファインマンさん」が思い浮かぶ。前者「困ります、ファインマンさん」という本の原題は、"What Do You Care What Other People Think?"だ。「他人がどう考えるか一体何を気にしてるの?」というタイトルと、「困ります、ファインマンさん」は何だかずいぶん趣が違う。

 その違いがいつも気になってしょうがない。"What Do You Care What Other People Think?"という本の内容を一節の言葉にしたとき、それが「困ります、ファインマンさん」では、何だかとても違うようにも思う。「困りますねぇ」という言葉と、「他人がどう考えるか一体何を気にしてるの?」という言葉の間には、非常に大きな隔たりがある。言葉の力が持つ向きが180度違うように思う。

 そんな具合で、この「困ります、ファインマンさん」というタイトルは好きではないのだが、そんなつまらない気持ち以上に、この本に描かれている内容は大好きだ。パラパラと楽しみながらページをめくることができるのが「ご冗談でしょう、ファインマンさん」であるならば、一行一行をゆっくり読み進みたくなるのが"What Do You Care What Other People Think?"だ。

 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」を思い浮かべて、「困ります、ファインマンさん」というタイトルの本を手に取る人も多いことだろう。けれど、そのタイトルをにアレルギーを感じて「逆に手に取らない人」も多いかもしれない。けれど、そんな人こそ、この原題"What Do You Care What Other People Think?"という言葉を、誰が誰に向かってどんな時に口にしたのかを知るためだけにでも、この本を手にとって見るのも良いと思う。その意外な答えは、きっと、あなたを勇気付けると思う。

"What Do You Care What Other People Think?"

2008-04-30[n年前へ]

「強いパンチを打つ方法」(物理編) 

 ジャッキー・チェンのカンフー映画の中だったか、格闘技の解説書の中だったか、あるいは、力学の教科書か何かの中だったかは忘れたけれど、こんな「強いパンチを打つ方法」を聞いた(見た)記憶がある。

 (たとえばパンチのような)強い打撃を与えようとする時には、”打撃を加える瞬間に体を伸び上がるようにするべし”あるいは"一瞬体を伸び上がり体を浮かし、着地する瞬間に足元を蹴りながら、打つべし"
 特に、自分よりも体格の良い(体重がある)相手に対するときには、この技巧を忘れてはいけない。

 この言葉がいわんとしているのは、多分こんなことだったと思う。

 自分より体重のある相手に打撃を加えても、相手は動かず自分自身が後ろに下がってしまう。それは、重い荷車を押そうとしても、足元が滑ってしまい、荷車を前に押し進めることができないようなものである。
 あなたの足元が動かないようにする力、言い換えれば、自分の足と地面との「摩擦力」は、摩擦係数とあなたが地面を押す抗力に比例する。ということは、足元が動かないように、足元が滑らないようにするためには、「あなたが地面を押す抗力」を増加させれば良いのだ。
 かといって、その瞬間だけ急に体重を増やすわけにはいかないから、”打撃を加える瞬間に体を伸び上がるようにしたり”"高いところから着地する瞬間に足元を蹴る"ことで、自らの足が地面を押す力を高めるようにすれば「強いパンチを打つことができる」ようになるということを、先の言葉は伝えようとしているわけだ。

 しかし、この「きわめて物理的な強いパンチを打つ方法」には、重大な弱点がある。それは、「パンチを打つ前後には体が浮いてしまっている。そのため、そのパンチを打つ前後の瞬間に攻撃されたら、ひとたまりもなく倒されてしまう(踏ん張ることができない)」ということである。

 よく、「必殺技を繰り出す前後に無防備な瞬間がある」というような設定のマンガを見かけるような気がするけれども、そんなことを今更ながらに思い出す「強いパンチを打つ方法」(物理編)なのだった。

中国四千年の「強いパンチを打つ方法」の弱点中国四千年の「強いパンチを打つ方法(物理解説編)」中国四千年の「強いパンチを打つ方法」






2008-05-01[n年前へ]

力積で考える「カミソリパンチ」と「ググゥーッと押し込む打撃」 

 「強いパンチを打つ方法」(物理編)を描きながら、「カミソリパンチ」と「ググゥーッと押す打撃」の違いを示したグラフを思い出した。空手と合気道の打撃の違いだったか、あるいは、ボクシングのパンチ種の違いだったか、とにかく、非常に強い力を素早く一瞬の間に与える「カミソリパンチ」と、さほど強くはなくともある程度の時間にわたり「ググゥーッと押すような打撃」がどのように異なるかを解説したものだった。

 頭部を打つような場合には「カミソリパンチ」は効果があるけれど、ボディ(腹部・胸部)などを打つには「カミソリパンチ」ではあまり効果がない、というようなことだったと思う。
 つまり、重量の軽い頭部なら一瞬の鋭い力でショックを与えることで(相手の頭部を急激に動かすことで)ダメージを与えることができる。けれど、重量のあるボディ部に対しては、そういった一瞬の力では、力積(力×時間)が小さいため、ダメージを与えることができない、というのである。
 だから、ボディ(腹部・胸部)などに打撃を与えるときには、「ググゥーッと押し込む打撃」が良い、というわけだ。

 「強いパンチを打つ方法」(物理編)では、一瞬「強い力」を与えることはできそうだが、「ググゥーッと押し込む打撃」を与えることはできそうにない。ということは、「強いパンチを打つ方法」(物理編)は頭部狙いの打撃技術ということになりそうだ。

「カミソリパンチ」と「ググゥーッと押す打撃」








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