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2005-11-10[n年前へ]

「料理のレシピ」は「科学実験の手順書」だ 

 「サイエンス」が好きという主婦さんにメールを書く。

 なるほど、「料理のレシピ」は確かに「理科実験の手順書」ですよね。だって、「料理は理料」、左から読んでも右から読んでも、「りょうりはりか」ですから。もちろん、縦書きで書けば、上から読んでも下から読んでも「りょうりはりか」ですものね。こんな風に、その二つはまったく同じものなんだから、当然のように「理科実験の手順書」と「レシピ」はイーコールなんですよね。
 さて、こんな文章を液晶画面やCRT画面で見るのと、紙で見るのとは結構違うんですよね。紙だと、こんなトリックは使えないんですよ、なかなか。
 えっ? 「一瞬納得しかけたけど、ちょっとごまかしがあるんじゃない!?」ですか…?「料」と「科」は(似ているけれど)違う字じゃないか、ですか…?例えば、こう考えるのはどうでしょう。 ほら、どちらも同じ「計(はか)る」意味ですよね。単に、それが「人が決めたしきり」で計るか「料 = りょう(量)」を料(はか)かというだけの違いですから。「理(ことわり)=人の力では、支配し動かすことのできない世の中にあるコトやモノ」を同じようにはかるんだ、というより深い意味ではニアリー・イーコールですよね。…やっぱり、屁理屈でしょうか…

2006-05-05[n年前へ]

「歴史」や「進歩」や「才能」 

 今日の「n年前へ」は「何でもやればできる、という言葉」「Thinkpadモーションコントロール動画」「未来予想図の多数決」「頭の中の妄想」と「証拠」「のび太君,百年の歴史を見るには百年かかるんだよ…」などです。「AmetMultiを使ってるところを映した動画」も懐かしく面白いですね。

「(何かを) - やろう - と努力をちゃんとできること」も「才能の一つ」なのかも、と思ったりもする。あるいは、「誰でもみんなやろうと思えばできる」と信じる力こそが、欠かせない才能の一つなのかもしれない、とも思う。
「のび太君、百年の歴史を見るには百年かかるんだよ…」
"Sometimes I wonder how you can stand being just a dog."  (人間じゃなくて)犬でいるのって大変じゃない?"You play with the cards you're dealt, whatever that means."  君だって自分に配られたカードで勝負するしかないんだろ?
本当の理科人間は理屈を言い争うディベートを好みません。どんな結論にも理屈はつけられるので、このようなコトバによる議論が、意味ある結論に導くとは思わないからです。
ぼくは、進歩しようとしない人を好きではない。

2006-05-15[n年前へ]

「料理も基本的には技術」 

 「お笑いパソコン日誌」の「料理も基本的には技術」という一節を読みながら、「料理のレシピ」は「科学実験の手順書」だを思い出す。と、書くこの文自体は「文化系的な感覚」な文章だったりして…。

「料理のレシピ」は確かに「理科実験の手順書」ですよね。だって、「料理は理料」、左から読んでも右から読んでも、「りょうりはりか」ですから。
少しの違い(ごまかし)があっても、どちらも同じ「計る」意味ですよね。「人が決めたしきり」で計るか「料 = りょう(量)」を料るかというだけの違いですから。

2006-11-12[n年前へ]

「美味しさ」って何だ? Part1 

美味しんぼ - Wikipedia とある勉強会で、「美味しさって何ですか?」という課題レポートを出されました。「美味しさ」ってどんなものかが全然わからなかったので、今夜マンガ喫茶に3時間ほどこもり、美味しさのバイブル「美味しんぼ」をひたすら読みこんできました。
 …といっても、読んだのは(100巻近く出ているうちの)1〜47巻までで、主人公二人が結婚するまでの半分ほどだけです。というわけで、これから2,3日にわたって、「美味しんぼ」メモから始まるエトセトラについて書いてみることにします(続く…)。

なるほど、「料理のレシピ」は確かに「理科実験の手順書」ですよね。だって、「料理は理料」、左から読んでも右から読んでも、「りょうりはりか」ですから。

2008-05-02[n年前へ]

理科の教科書に出てくる「仕事」と「駅前で聴く音楽」 

 力積で考える「カミソリパンチ」と「ググゥーッと押し込む打撃」の「力積」は「力の大きさと力が働く時間を掛けあわせたもの」です。その一方、「力と変位を掛け合わせた(内積)もの」を、理科の教科書の中では「仕事」と呼びます。


ちなみに、AがBに「仕事」をすると、AからBにエネルギーが移ります。

 中学か高校の頃、理科か物理の教科書の中で「仕事」という言葉が出てきたときに、何だかその言葉の感覚と教科書の中での定義がズレていて首を捻ったような覚えがあります。たとえば、Wikipedia に「仕事とは呼ばない例」として挙げられているようなこと

 人が重い荷物を抱え・支えている状況では、荷物は静止していて、エネルギーは変わらない。つまり、この場合、人は荷物に対して仕事をしていない。
を聞きながら、それは仕事でないのかぁ……!?と悩んだわけです。「重い荷物を抱え・支えている状況」はとてもしんどそうなのになぁ……と感じました。それは「仕事」ではないかもしれないけれど、筋肉がパンパンにつく肉体改造・大成長状態だろうに……と思ったのです。
 私と同じように、理科の教科書を読みながら、頭の中に大きなハテナマークを浮かべた人はきっと多いと思います。

 先日、「手作り三次元グラフ」と"Life Work"「"複雑極まりない"複素平面」上に「仕事」と「趣味」を描くといったラクガキをしました。そのとき、”理科の教科書の中の「仕事」の説明を読みながら、頭に浮かんだハテナマーク”を思い出しました。
 あのラクガキ中の「他人の満足」という軸は、「その人がどれだけ他の人を満足させたか・その人の力で他の人(の心を)どれだけ動かしたか」という、まるで理科の教科書に出てくる「仕事」なのかもしれない、と感じたのでした。

 駅前で誰かが演奏している音楽を聴いて心が動かされたとき、「何だか心の中に豊かなエネルギーが入ってきたなぁ」と思ったりもします。それを、理科の教科書を思い出しながら言うならば、「あぁ誰かに仕事をされたんだなぁ」と感じたりするのです。

 「力積」と「仕事」はイコールではありません。もしも、「自らを脅かし・揺るがし、新たな出会いや発見がある」としたら、それは「仕事」よりは、力積に近いものなのだろうか、と思っています。



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