hirax.net::Keywords::「運命」のブログ



2005-07-27[n年前へ]

問題編「死刑か無罪」のクジを引く 

 昨日、同僚や他社の仕事仲間が「(彼らが)今ひとつ納得できないという確率の話」をし始めました。それは、割に有名な話なのですけれど、ちょっとアレンジしてみるとこんな話になります。

あなたは裁判の被告人で、「死刑」か「無罪」かを決められようとしている。
 なんとも恐ろしいことに、その裁判では「死刑」か「無罪」を三本のクジで決めるのである。そして、二本のクジには「死刑」と刻まれていて、残りの一本には「無罪」と書いてある。つまり、1/3の確率であなたは「無罪」になるが、残りの2/3の確率であなたは「死刑」になってしまうのだ。あなたは一本クジを選び、そしてそのクジがあなたが「死刑」になるか、「無罪」になるかを決めてしまうのである。
 ついに、あなたは運命を天に任せ、一本のクジを手に持つ。そして、そのクジを引いて何と書かれているかを知ろうとした瞬間、残りの二本のクジの一本を横から他のアセった被告人が引いてしまった。そして、そのクジには「死刑」と書いてあり、そのアセった被告人は死刑台へ連れていかれていった(実は今回の物語では神=ストーリーテラーの私が彼の運命を決めていて、彼は必ず死刑を選ぶのだ) なんと…恐ろしい運命だろう。 さて、この次の瞬間、あなたはどうすべきだろうか。
今、手に持っているクジをそのまま引くべきだろうか?それとも、手に持っているクジから手を離し、残っているもう一本のクジを選ぶべきだろうか?それとも、アセった被告人が存在しようがしまいが、残った二本の文字が書き換わるわけではないのだから、その二本のどちらを選ぼうがあなたの運命が変わるわけもなく、あなたは1/2の確率で「死刑」か「無罪」かが決まるのだろうか?
 というわけで、とりあえず問題編を新幹線の中で書いてみました。問題の主人公の気持ちになって、あなたなら「どんなクジの選び方」をするかを考えて決めてみましょう。「死刑」か「無罪」かのクジを選んでみましょう。さてさて、

実験編「死刑か無罪」のクジを引く 

 始まりは、問題編「死刑か無罪」のクジを引くです。

 解説編の前に、まずは問題の主人公の気持ちになって、あなたなら「どんなクジの選び方」をするかを考えて決めてみましょう。「死刑」か「無罪」かのクジを、下の表で試しに10回選んでみることにしましょう。まずは、クジ1クジ2クジ3のうちのどれか一本を10回選んで印をつけてみて下さい。
あなたの運命を決めてみよう
 それでは、「今、手に持っているクジをそのまま引く」人の運命を調べてみよう。実は、クジに書かれた運命はこのようになっていた。あなたの「無罪」の確率はどの程度だっただろうか?あるいは、死刑になる確率はどのくらいだったろうか?

 それでは、次に「手に持っているクジから手を離し、残っているもう一本のクジを選ぶべき」と答えた人の運命を調べてみることにしよう。(あなたが選ばなかった)各回の残り二本のクジの中から「死刑」のクジをアセった被告人に引かせます。そして、さらに残った一本があなたの運命を決めるクジです…。さて、あなたの「無罪」の確率はどの程度なったでしょう?あるいは、死刑になる確率はどのくらいになったでしょうか? 試しに何回かやってみます?

2006-02-11[n年前へ]

「四捨五入と五捨五入」 

 from n年前へ.

 自分自身が、四捨五入される感覚というのはありがちなものだと思う。今時の季節であれば、もしかしたら受験生なんかはそんな感覚を持つことも多いかもしれない。 四捨五入では、「どこかの桁」が切り捨てられるか、あるいは、切り上げられるかは、その桁自身の値の大小で決まる。ところが、五捨五入だと、その桁を切り捨てるか切り上げるかは、(その桁ではなく)その上の桁が決める。 つまりは、自分の運命決定権は自分の上の桁が持っていて、自分の行く末を決めてしまう。「自分を四捨五入する」と「自分が五捨五入される」のと…

2006-11-04[n年前へ]

加納朋子「レインレイン・ボウ」 

 加納朋子の「レインレイン・ボウ」(の文庫版)を読んだ。9人いた高校ソフトボール部のチームメイトの1人が亡くなる。その前後の25歳のチームメイトたちを描いた小説だ。話のアウトラインを稚拙に書いてしまえば、北村薫の「秋の花」とよく似たものになるだろう。あるいは、その感想を書いてみても、Amazonの「秋の花」の書評

それぞれ「彼女」の心を読み解こうと試み、やがて「自分」の位置に思いを馳せる。あるものは倒れ、あるものは絶望し、あるものは迷い続ける。その途上に、彼女の残した「きっと」という言葉。それは運命、その意味へと向き合う人の希望であり、なによりも祈りなのである。
などと似たようなものになるかもしれない。けれど、遥か年上の男性という視点から描かれた物語と、そうでない物語という違いが(いつもそうであるように)ある。

Title虹の彼方に。 9人の物語が、まるで、色環の上を歩いていくように、オレンジ・スカーレット・黄色・緑・紫・藍・青と続く7つの物語で綴られる。何事もあまりに真剣に考えてしまいがちな人は「さらりとしすぎる」と感じ、楽しめないかもしれない。そうでない、「人生楽ありゃ 苦もあるさ涙のあとには 虹も出る」と水戸黄門風に考える人であれば、さらりと楽しめるかも。
「文化によっては、虹は6色とされているところもあるのよ」「何色が抜けているんですか」 …ないことにされている色を気の毒に思い、尋ねた。
プリズムを通過した光が見せる、無数の色のグラデーション。その細かな色のひとつひとつが、見える人には、見える。見えない人には、見えない。
「自分のことは自分が一番知ってるわよ」「自分で思っている自分が、必ずしも本当の姿に近いってことはないですよ」「色んな色が虹みたいに重なり合って、複雑な模様を作ってるからこそ、人間って面白いんじゃないですか」

2008-02-09[n年前へ]

合成されたドコモ・コマーシャル「国境を越えて」 

 瑛太と蒼井優が、日本の駅やバス停のベンチで、オーストラリアの荒野を走る道の上から、あるいは、マレーシアの川を走る船に乗って、ケータイ越しに会話を続け、最後にパリの凱旋門前で運命的に出逢う、というストーリーのNTTドコモのコマーシャル「DoCoMo 2.0「国境を越えて」篇(ロングバージョン)」には、(ロケでなく)合成撮影も使われているという話が、鴻上尚史の「ドン・キホーテのピアス」に書いてあった。CMのメイキングを見てみると、確かにニューヨーク・マンハッタンのビル屋上シーンなどで合成撮影をしていることがわかる。

ねぇ。…なのかな?
どうなんだろうね。

 「最後にパリの凱旋門前で運命的に出逢うシーン」も合成撮影で作られていて、この出逢うシーンの撮影とケータイの会話の音録りが一番最初に行われており、瑛太と蒼井優が二人揃う共演はその初日が最初で最後だった、という。「最後に出逢う」シーンが、「最初に」合成撮影されていて、それが「最初で最後の一日」だった…ということを知ると、何だか少し面白い。

人に訊かれて、「たぶん」って答えた。
「たぶん」て何よ。

 このコマーシャルを見ていると、その背後に「判断」とか「決定」とか「たぶん」とか、そして「運命」とか、…そんな言葉の流れが見えてくる。そんな言葉が地球の周りをグルグル電波に乗って回っている。コマーシャルは、社会を写している。

ねぇ運命って信じる?
たぶん。
また「たぶん」なんだ。

DoCoMo 2.0「国境を越えて」篇








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