2005-05-07[n年前へ]
■「失踪日記」 /いしかわじゅん
「主に、サインペンというかミリペンというか、均一な線で多少滲みがあって抵抗の少ないペンで描いている。これは、(…)結果として、吾妻の意図するものとは違うものができてしまう。違う意味のものになってしまう。与える印象も違うものになっている。絵は、内容をも規定するのだ。 (…)絶望がある。しかし捨てない矜持がある。吾妻は、また復活すると思う」という「失踪日記」いしかわじゅん.
2006-03-05[n年前へ]
■「一番手」と「日常の歌」
from n年前へ.
魔夜峰央が長く続くのは、最前列(近く)にいたけれど一番手には一度も立ってないからだよね。一番手を続けていたら、なかなか十年は持たないからね。
僕は偉そうに人に意見する人がすごくイヤなんです。…だから、なんかの主張をがなりたてるよりも、普通の人たちの日常を歌にする方がいいと思うようになった。
2009-06-15[n年前へ]
■抒情の向こうに潜む絶望と希望
いしかわじゅんのマンガ書評集「漫画の時間 」から、西原理恵子の「はれた日は学校をやすんで 」に対しての言葉。
この作品のほとんどは、確かにすぐれて叙情的なものばかりだ。しかし、もう一度涙をぬぐって読み直せば、そこに違うものも見える。表面的な美しい抒情の向こうに潜む、西原の恐ろしいほどの絶望と、それから胸の底にわずかにのぞく希望とが、読みとれるだろう。
2010-04-19[n年前へ]
■連結部分は電車が揺れる。
いしかわじゅん「漫画の時間」の、内田春菊「連結部分は電車が揺れる 」への言葉。
この作品集では、春菊は四十歳前後の女性たちの、自分の人生や男や子供について、惑う心を描いている。みな、人生で一度立ち止まって考える時期にきて、惑っている。
線路は、連結部分を通り過ぎる時には揺れるものだ。でも、それを通り過ぎればまたそれぞれの向かう方角に繋がって進んでいくのだ。そんな物語を、春菊は描いている。
ただ、それが正しい方向かどうかを、春菊はあまり示さない。
2010-04-27[n年前へ]
■ここから先はあえて描きたくないという部分
いしかわじゅん「漫画の時間」の、内田春菊「連結部分は電車が揺れる 」への言葉。
誰もが目を背ける、心の暗部。ここから先はあえて描きたくないという部分は、あるものだ。この続きは、それを引用しながら、同時に、他のさまざまな資料を引きながら、近いうちに書いてみようと思う。
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