2005-04-11[n年前へ]
2005-10-05[n年前へ]
■The Computer History Museum
地域の新聞を見ると、GoogleとSunの合意のニュースがトップを飾っている。巨大なアナログシンセサイザのようなアナログコンピュータや、古いコンピュータを修復しているところや、色んなものを眺める。
解説ツアーの説明中で一番面白かったのが、紙のパンチカードのサイズの話。
この紙のパンチカード、サイズの由来について、わかる人はいらっしゃいますか?誰もわかりませんか?これは、実は、当時のドル紙幣のサイズなんです。
これを設計した人たちは、このカードがいずれ未来の紙幣となって、その当時の紙幣の後を継いで、紙幣と入れ替わるものだという思想を込めたんです。だから、ドル紙幣と同じサイズにしたんですよ。
2007-12-30[n年前へ]
■読みづらいSPA!のヒミツは「アナログ工程」か「老眼」か?
SPA!を読んでいる時、ふと「なんだか読みづらいし、読むと目が疲れるなぁ…」と感じた。もしや、これが老眼というものだろうか…?と不安になりながら、念のためSPA!のページを拡大して色々眺めてみたら、これが明らかに読みづらそうな文字印刷になっていた。黒単色文字でさえもスクリーン(階調処理)がかけられていて、なんとも読みにくい汚い文字になっている。
おそらくSPA!の原稿編集印刷工程はデジタル化されていないのだろう。記事・ページによっても違うだろうが、文字も写真もすべて同じように処理されているに違いない。その結果、文字部の印刷もこういう写真処理と同じような処理になっているのだろう。(ちなみに、こちらの画像は朝日新聞の天気予報欄の印刷である。こちらの場合は、読みやすい綺麗な文字であることがわかる。)
とりあえず、読みづらいSPA!記事の原因は必ずしも老眼のせいというわけではなさそうだ。これで「老眼の訪れ」から逃れられたわけではないけれど、少しだけホッとした今日この頃だ。
2007-12-31[n年前へ]
■続 読みづらいSPA!のヒミツは「アナログ工程」か「老眼」か?
先日の『読みづらいSPA!のヒミツは「アナログ工程」か「老眼」か?』にSPA!の記事が読みにくいのは、製版工程でなくて刷版工程のせいではないか、具体的には、SPA!の表紙と中折以外の部分が、オフセット印刷でなくグラビア印刷になっているせいだろう、と教えて頂きました(印刷屋は「広義の製版」を論理工程と物理工程に分け、論理工程を「製版」として、物理工程を「刷版」と区別するそうです)。グラビア印刷はほとんどの場合ヘリオクリショグラフなどの機械彫刻により刷版されるので、350DPI程度でしかドットを生成できず前回のような文字出力になる、ということでした。
「オフセット印刷はCTP(レーザでダイレクト刷版)が一般的なので画線が綺麗だけれど、色再現を重視する女性ファッション雑誌や用紙を薄くしたいカタログ誌などではグラビアが多く使われる」ということなので、あまり色が綺麗とは思えないSPA!の場合には薄い用紙を使うためにグラビア印刷が使われているのでしょうか?
2009-03-22[n年前へ]
■デジタルがアナログに追いつく日
こう言うと「冗談」だと思われることも多いのですが、私はコンピュータを扱うのが本当に苦手です。何か資料を作るときは、ハサミと糊でマニュアリー(手作業)でコピー・ペーストをしながら、仕上げることが多いくらいです。
先日書いた「論理的にプレゼンする技術 」の特長はとてもイラストが使われていることです。そのイラスト・イメージは、駅中の喫茶店で、いつも持ち歩いている小さなホワイトボードに絵を描きながら「イメージ」を編集者に伝えました。「こういうことを伝えたい」という絵をホワイトボードに描き、そして、それをケータイで撮影して記録していくのです。
そんな携帯用ホワイトボードに描いた、ラクガキの例が下の画像です(あるいは、さらにその下に小さく張り付けたような「まとめ」用イラスト例になります)。本書のページを本屋で手にとって、一枚一枚めくってみれば、こんな稚拙なラクガキを元に綺麗に・わかりやすく描き直されたイラストを、必ずどこかに見つけることができるはずです。
ところで、手書きで「言いたいこと」を描くよりも、コンピュータを使って資料を作る方がずっと時間がかかるように思います。しかも、プレゼンテーション・ソフトウェアで図を作ったりした日には、「考えていること・言いたいこと」がメリハリがつかなくなり、わかりにくい資料になってしまうことが多いようにすら思うのです。不思議なような気もしますが、そう私は感じています。
デジタルがアナログに追いつく日は、まだまだ来ないのではないでしょうか。それは、単に「私が追い付いていない」だけなのかもしれません。けれど、やはり、デジタルがアナログに追いつく日は、まだまだ来ないのではないか、と思うのです。