2007-09-22[n年前へ]
■選択肢と幸せ
「選択肢が多いほど、人は幸せになる」という言葉を聞きました。それは、「選択肢の多さは人を幸せにしない」という友野教授の言葉 とは正反対の言葉に聞こえます。
問題は、その不幸な出来事を、ちゃんと距離を持って突き放せるかどうか、だけです。
新明解国語辞典で「座右の銘」という言葉の意味を調べてみると、こんな風に書いてありました。常に自分を高めようと心がける人が、折に触れて思い出し、自分のはげまし・戒めとする言葉
相反する選択肢が増えたとしても、選ぶことができる選択肢は一つです。選択肢が増えるということは、「選べない選択肢」が増えてしまうということに思えます。
不幸との距離は、書いていくことで生まれることが多いです。それは、日記と似ています。眠れない夜、日記を書くことで、かろうじて今日起こった出来事を整理できるのです。
2008-02-11[n年前へ]
■「ギャラリーフェイク」と「コピー」
美術の歴史を知ると面白く感じる。そして、ミステリー=謎解きも好きだ、と感じる人がきっと好きになるマンガが「ギャラリーフェイク」だ。時には、「カルマン渦」や経済学者でもあったマンデルブローの"株価変動予測"フラクタルを考える「連立不当方程式」といった理系心をくすぐる話も詰まっている(13巻目第2話)、そんなマンガだ。
「フェイク」つまり、「偽造した絵画」を題材にしたマンガ「ギャラリーフェイク」を読むとき、いつも思い出すのが「コピーの時代」という美術展だ。『現代の私たちの日常生活には多種多様な「コピー」が満ち溢れています』という言葉で幕が開く美術展を見たとき、感じたのは「コピー」が持つ劣化性だ。そして、「コピー」が持つ「進化能力」言い換えれば「可能性」だ。
時に、自分が何かの「コピー」になってしまいそうに感じる瞬間がある。影響を受けたものをただなぞるだけ、になってしまいそうになる。しかも、幸か不幸か「テキストをなぞるのが不得手」なせいか、劣化コピーになってしまうことが多い。
…これは困ったものだと感じながら、そんな時は、小器用なコピーでは、無限縮小コピーになってしまいそうだから、「とても質の悪いコピー」は「一種の進化だ」と眺めなおそう、と思ったりもする。小器用な縮小コピーを続けていたら、原始生物も人類も生まれなかったかもしれないし。
2008-03-25[n年前へ]
■「ひょっこりひょうたん島」に上陸する
「我入道」で書いた大山巌の別荘跡は「ひょっこりひょうたん島」の浜辺にある。海辺に位置する牛臥山は、少し昔はれっきとした島だったのだけれど、その牛臥山の地形はひょっこりひょうたん島の地形にそっくりだ。だから、ひょうたん島資料館を、牛臥山近くに作ろうというプロジェクトすらあるくらいだ。
いつも生活している街並みから、ぽっかり浮かんで不思議にズレているような場所がある。毎日歩く道先にあるはずなのに、普段はなぜか辿り着けない。
「我入道」
少し前、大山巌の別荘跡を守る「陸に浮かぶ孤島」の牛臥山に登ってみた。古い神社の横(あまりに定番の場所だ)にひっそりと、定期的に人が歩いているように見える道があって、その草木が折られている箇所を登っていくと、ひょっこりひょうたん島ならぬ牛臥山のてっぺんにたどり着いた。地面近くの草に足をひっかけて転んでしまうと、何だか数十メートルくらい滑落してしまいそうな感じだった。
頂上近くから「大山巌の別荘跡」を見ると、そこは普通の公園になっていた。まだ、どの入口も封鎖されているから、「毎日歩く道先にあるはずなのに、普段はなぜか辿り着けない場所」ではあるのだけれど、けれど、かつてのような不思議な場所・歴史の中のエアーポケットに遺失物として置かれたままになっている場所とは違ってしまっている。
大山巌たちが海を眺めた別荘跡、彼らが歩いた石垣や階段跡を散策することができる。三方を急峻な山に囲まれ、残りは海が広がり、そして現在は誰もいない場所は不思議な空間そのものだ。
「我入道」
しばらくすれば、我入道にある「大山巌の別荘跡」は、交通標識に沿っていけば、迷わず誰でも行くことができる場所になる。あるいは、干潮時の岸壁沿いを通ってたどり着いたとしても、そこには「普通の整備された公園」があるだけだ。
我入道という地名は、船に乗った日蓮上人が「ここが我が入る道である」と言って上陸したことに由来する、という。日蓮上人と違う私たちは、自分たちが進む道を簡単に決めることなどできない。考えて時に迷い、時には何も考えずに、ただ歩く。そして、そのルートが「自分が歩いた道」「我入道」になっていくだけのように思う。最初から最後までアスファルトで整備されているような「ルート」があるのかどうかは、幸か不幸か知らない。けれど、もしもそんなルートが現実にあったとしたら、それは単に鋳造されたポインタのない「線路」に過ぎなのかもしれない、とも思う。鋳造された線路と、先の見えない獣道のどちらがいいのかは、わからないけれども。
「我入道」
2009-08-22[n年前へ]
■才能幻想や自己幻想にとらわれている不幸
右近勝吉「平凡な私が月300万円稼ぐ7つの理由 」から。
才能幻想や自己幻想にとらわれている凡人の不幸は、ふたつあります。この本は、タイトルに惑わされずに、すべての人が手にとって頁をめくってみる価値があると思う。
ひとつは、いつまでたっても届かない才能を追い求めて一度しかない人生を消耗してしまうことです。もうひとつは、自分が凡人だと気づいたとたんに「自分はダメだ」と思ってしまうことです。
やれることを精一杯やる。そういうシンプルな姿勢が凡人力の強さです。
2010-06-01[n年前へ]
■欠点を数え上げても幸福にはなれません
婦人公論4月22日号に収録されている、内田樹の「欠点を数え上げても幸福にはなれません」から。
「言われて治る」ようなものは「欠点」とは呼びません。でも、そういう本質的な欠点は、その人の本質的な長所と表裏一体になっています。
そして、決して治るはずのない性格特性を「減点」対象として日々意識することで、幸福になる人は誰もいません。…そんなふうにして、自分で自分を不幸にしている人がたくさんいます。