2002-08-30[n年前へ]
■平塚を過ぎた辺りかな
今日の夕暮れ。(リンク)
2002-11-17[n年前へ]
■沼津港で見た景色
昨日、LUMIX FZ-1を買った。どうしてこの機種を選んだかというと、少し気分を変えてみたかったのである。これまで使っていたNikon775(入院中)を選んだ理由が「小さくて広角アダプターがつくこと」ということだった。だから、今回は「小さくて望遠に強いこと」という風に選んでみたのである。とはいえ、もちろん基本的に私は広角の写真が好きなので、LUMIX FZ-1にも広角アダプターを付けることになるだろう。とりあえず、右の写真はLUMIX FZ-1の広角端で撮った写真で、沼津港の市場から水平線を眺めながら撮った。
そして、左の写真は今度はLUMIX FZ-1の望遠端で撮った写真だ。光学12倍ズームというのはなかなか迫力がある。右の広角端の写真と比べて、その違いが判るだろうか(全然違う写真だけれども)。
しかも、寒い中で手が震えがちで、風が吹いてて、しかも曇り気味で夕日が沈む間際という暗い中にも関わらず、光学手振れ補正のおかげでブレにくかったのもなかなかに良い感じだった。
それにしても、何百回と眺めても、やはり海の近くで眺める青い空はとても綺麗だ。右の写真のような、もうすぐ日暮れという時の深い青とゴールドの空も、日が落ちる瞬間の赤い風景も、日が沈んだ後の藍色の空もどれも本当に綺麗だ。気分はもう、老後の散歩をしている夕暮れ、なのである。
右の写真は、沼津港の市場から外の海を眺めてみた。市場の屋根と柱がまるで写真のフィルムのフレームのように景色を切り取っている感じがとても不思議で天然の展覧会が開催されているみたいだ。不思議な景色だ。
2002-11-28[n年前へ]
2003-05-01[n年前へ]
■今日見た夕暮れ(と)
全然写真とは関係無いけれど、少し心に浮かんだことを書いてみる。
「○×で議論ができるか?」というたまにみかける話題である。もちろん、○×は「Wiki」でも「WEB日記」でも「Blog」でも「はてなダイアリ」でも何であっても良いのである。とにかく、そんな「○×で議論ができるか?」という言葉を見るたびに、「○×で議論ができるか?」ということよりも、「○×は(それを題材にして)議論ができるか?」ということの方が気になる。議論をするための「場」でもなく「道具」でもなく、その題材自体が「議論」しうるものなのかが気になることが多い。
絶対的な「審判」、例えば「自然」であったり、がいないような題材でどのように議論を判断・終結させていくのかは、その「議論」の道具が何であったとしても難しいことだと思うし、きっとそもそも終結していくようなものではないに違いない。だから、そんな場面を見かけるときには、興味深く眺めもするし、その行く先に少しばかり懐疑的になったりもする。それが単に好奇心の交換を行うようなことであれば、そして「議論」でなければ決して懐疑的になったりはしないのだけれど、そうでない場合にはやはり少し悲観的になったりもする。「審判」のいない世界に百人の人がいれば、百人の世界観があるだろうし、人の意見に干渉するのはつまらない、と思ってしまうのである。
技術系の話題で有れば、そんな「審判」がいる題材も比較的多いけれど(もちろん単に比較的である)、人文系の話題であれば、そんな「審判」がいない場合も多いに違いないけれど、そんな時はどうしているのだろう?うーん、どうしているのだろう?
ところで、絶対的な「審判」がいないような場面で、その題材に関して何かを魔術のように作ってしまう「創造主」が現れることもある。そんな時には「議論」を待たずに「その題材の世界が正しいか、間違っているか」の「審判」ができてしまうこともある。 …あぁ、まとまらないからここで書くのをやめてみよう、っと。
2003-07-18[n年前へ]
■114年前にゴッホが眺めた満月
夕暮れや月を見ると心が少し和んだりする。そして、誰かにそんな景色の様子を伝えたりしたくなるものだ。114年前にゴッホが眺めて描いた満月も景色を伝えようとする感じを強く受ける。そして、なんだか心が少し落ち着くような感じもする。
from L.L.L@online。