2003-05-01[n年前へ]
■ソノシート
「ソノシート付きゲームの情報」ありがとうございます。8800円というのはチト高いですかねぇ?用途が「できるかな?」ネタ用ですからねぇ…。
■今日見た夕暮れ(と)
全然写真とは関係無いけれど、少し心に浮かんだことを書いてみる。
「○×で議論ができるか?」というたまにみかける話題である。もちろん、○×は「Wiki」でも「WEB日記」でも「Blog」でも「はてなダイアリ」でも何であっても良いのである。とにかく、そんな「○×で議論ができるか?」という言葉を見るたびに、「○×で議論ができるか?」ということよりも、「○×は(それを題材にして)議論ができるか?」ということの方が気になる。議論をするための「場」でもなく「道具」でもなく、その題材自体が「議論」しうるものなのかが気になることが多い。
絶対的な「審判」、例えば「自然」であったり、がいないような題材でどのように議論を判断・終結させていくのかは、その「議論」の道具が何であったとしても難しいことだと思うし、きっとそもそも終結していくようなものではないに違いない。だから、そんな場面を見かけるときには、興味深く眺めもするし、その行く先に少しばかり懐疑的になったりもする。それが単に好奇心の交換を行うようなことであれば、そして「議論」でなければ決して懐疑的になったりはしないのだけれど、そうでない場合にはやはり少し悲観的になったりもする。「審判」のいない世界に百人の人がいれば、百人の世界観があるだろうし、人の意見に干渉するのはつまらない、と思ってしまうのである。
技術系の話題で有れば、そんな「審判」がいる題材も比較的多いけれど(もちろん単に比較的である)、人文系の話題であれば、そんな「審判」がいない場合も多いに違いないけれど、そんな時はどうしているのだろう?うーん、どうしているのだろう?
ところで、絶対的な「審判」がいないような場面で、その題材に関して何かを魔術のように作ってしまう「創造主」が現れることもある。そんな時には「議論」を待たずに「その題材の世界が正しいか、間違っているか」の「審判」ができてしまうこともある。 …あぁ、まとまらないからここで書くのをやめてみよう、っと。
■SONYのEX70SLを改造
いつも持ち歩いているインナーヘッドホンのSONYのEX70SLを1,2,3を参考に改造。簡単だけど、なかなか良いな。チップはイヤーウィスパーに交換したから、町中では危険かもしれないけれど。