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2008-02-13[n年前へ]

若狭 小浜の海 に行く 

 米大統領選の民主党候補選で知名度を上げたオバマ上院議員と似てる名前、NHK連続テレビ小説「ちりとてちん」の舞台、そんなこんなで「小浜」の名前をよく聞く。

 学生時代、よく小浜へ行った。京都市は太平洋からも日本海からも、そのどちらにも同じくらいの距離に位置している。南の海も北の海も同じくらいの距離にあるけれど、太平洋を見に大阪湾を眺めに行くよりも、日本海をの波を見に若狭湾へ行く方がいい。だから、京都から海を見に若狭湾へ行く人は多かった、と思う。

 京都から比叡山の麓、大原を抜け、若狭街道を車で3時間も走れば、小浜に着く。京都の北部の山中を走る若狭街道を、ただ走るだけで小浜に着く。 この小浜と京都を結ぶ若狭街道は、「鯖街道」とも呼ばれる。かつて若狭湾から京都へと鯖を運んだ道を鯖街道と呼び、若狭街道はそんな鯖街道の一つだ。 だから、京都から小浜へ行くまでの間には、時折、昔ながらの町並みが姿を現す。

 若狭小浜は、海沿いに道があって、その道沿いに家が並んでいて、それが繋がり集まり小さな町になっている、そんな海に面した小さな町だ。曲がりくねった道の隣にはいつも海が見え、その海の先にはいつも走る道の先が見える。そんなよくある日本の海沿いの町だ。

 冬から春先にかけての若狭湾の海は、とても澄んでいて綺麗な青碧色をしている。暖かい夏になるともう少し濁った色になる。いつかまた小浜の町に行ってみよう。

若狭湾鯖街道






2008-02-16[n年前へ]

「鯖街道」と「地獄八景亡者戯」 

 NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」で、涙なくしては見ることができない「地獄八景亡者戯」が演じられている。何週間かかけて、何人もの登場人物たちが、それぞれの人生に重ねた「地獄八景亡者戯」を演じる。その幾重にも重なる人生の姿に涙する人は多いと思う。

 冥途を旅する……という話のルーツは随分古いものがありましょうが、これを滑稽なしゃれのめした物語にしたのは、(室町の狂言にもありますが)やはり江戸時代からでしょう。

 「地獄八景亡者戯」は、鯖にあたって死んだ「喜ぃさん」の話で始まる。若狭の海から京都・大阪へと鯖を運んだ街道が鯖街道・若狭街道だということを思い返せば、何だか「地獄八景亡者戯」はとてもその鯖街道と似合ってる。

 もともとこの話は、その時その時の事件や世相流行などをとり入れて、言わばニュース性を持たせてやる演出で伝わってきたものです。五世笑福亭松鶴師のは、私が聞いたのは戦後でしたが、昭和初期の赤い灯青い灯の道頓堀、カフェー全盛時代や、活弁の真似なんかがはいっていました。
 このはなしの一応の原典と見てよいものは江戸時代の小咄本にありますが、各地の民話にもあり、また欧州の民話にもあるそうで、木下順二氏の「陽気な地獄破り」はこのヨーロッパの民話を基にされています。本当の原典は従ってよく判らないというのが答えと言えましょう。

 小浜の町から若い(わかい)主人公 若狭(わかさ)が関西の街へ出て、年を重ねつつ色んなものを見る。そんな話と「鯖街道」と「地獄八景亡者戯」は、とても自然に重なっている。

 その内に、これを十八番の持ちネタとして新しい「地獄八景」を作ってくれる人が出てくることでしょう。これは滅ぼしたくない話です。

『特選!! 米朝落語全集』 第十五集






2008-02-23[n年前へ]

「波天奈(はてな)の茶碗」と「ギャラリーフェイク」 

 NHKの朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」が、あと一月で終わる。その一月の間に、「はてなの茶碗」が演目に上がるようだ。「はてな」という言葉、「?」という記号から連想するものといえば、その「連想物」の一番目は、地域性・場所柄・生き生きとした人の姿、そういったものが、とても鮮やかに浮かび上がる「波天奈(はてな)の茶碗」であると思う。そうであるといい、と思う。

わいも茶金さん知ってんねん。
茶金さんがひねくりまわしてる、値打もんに違いないぞ…

 芸術品の真贋を題材にしたマンガ、「ギャラリーフェイク」の中に「波天奈(はてな)の茶碗」という回がある。ギャラリーフェイクの「ニセモノ骨董品の茶碗」を題材にしたこの回「波天奈(はてな)の茶碗」は、こんな言葉・伝言で終わる。「ギャラリーフェイク」の中にあるいくつかの言葉の中でも、この言葉は、いつも心に刻み直さなければと思う一節の一つだ。

美を知るものは孤独なり。
徒党を組めば、やがて馴れ合い腐りゆくまで。
今の日本人はもう少し、胸のうちに己だけの美を
持つべきじゃないですか。

地蔵さんへの伝言さ。フジタからのな。

はてなの茶碗






2008-03-21[n年前へ]

「ちりとてちん」と「地獄八景亡者の戯れ」と「自己言及パラドクス」 

 NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」がもうすぐ終わる。エンディングに近づきつつある「ちりとてちん」では、冥土ツアーが語られる落語「地獄八景亡者の戯れ(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」を演じる音声が、画面の後ろに流れているシーンも多い。

 もともとこの話は、その時その時の事件や世相流行などをとり入れて、言わばニュース性を持たせてやる演出で伝わってきたものです。

 森下伸也の「逆説思考」~自分の「頭」をどう疑うか~(光文社新書)を読んでいると、冥土ツアーが語られる落語「地獄八景亡者の戯れ(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」における、自己言及的パラドックスが挙げられていた。

 このはなしの一応の原典と見てよいものは江戸時代の小咄本にありますが、各地の民話にもあり、また欧州の民話にもあるそうで、…本当の原典は従ってよく判らないというのが答えと言えましょう。

 森下伸也「逆説思考」で挙げられている「地獄八景亡者の戯れ」での自己言及的パラドックス一つは、三代目桂米朝のものであ り、もう一つは桂文珍のものである。ちなみに、桂米朝のものはこんな感じの「地獄八景」である。

  冥土の歓楽街に、亡くなった過去の名人の名前が豪華に並んでいる。よく見ると、そこに「桂米朝」の名前もなぜかある。
「そないな名の亡くなった落語家いてへんやろ?」
「よう見て下さい。”近日来演”って張り紙してありまっせ」
「なるほど、本人はそれも知らんと落語でもしてるんですやろな」

  桂米朝 「地獄八景亡者の戯れ」

 もうひとつ挙げられている桂文珍のものは、閻魔の前で特技の落語として「地獄八景亡者の戯れ」を披露し始めると、その話の中でさらに、「地獄八景亡者の戯れ」が展開されて…というM.C.エッシャー描く版画のような、「地獄八景」である。

 それにしても、ドラマ「ちりとてちん」は面白い。あと、一週間で終わってしまうのが残念だけれど、本当に旨く美味しい「半年間ほどの短編ドラマ」だと思う。一見長く見えるけれど、短いショート・ショートの連作のような、実はそれが繋がっている一つの短編小説のような、そんな素敵な作りだ。

 その内に、これを十八番の持ちネタとして新しい「地獄八景」を作ってくれる人が出てくることでしょう。

 何ヶ月かすると、このドラマのことも忘れてしまうかもしれない。けれど、何かの折に受ける印象・する選択に、どこかで影響を与えたりしてくれたら良いな、と思う。

2008-03-28[n年前へ]

「物語が語られる順序」と「因果関係」 

 「ゲームの右と左 マリオはなぜ右を向いているのか」という「上手と下手」に関する記事を読んだ。こういった、上手・下手もしくは左・右といった辺りのことは、スライド・デザインにおける「上手と下手」、もしくは、「上手と下手」のブログで調べたこと・感じたこと・書いていることから、特に自分の中で変わっていることはない。

 けれど、左右や上手・下手という軸でなく時間軸というものを考えると、たとえば、物語が語られる時間軸というものについて考えると、いくつも新しく感じたこと・納得したことがあった。そのひとつが、北村薫「ミステリは万華鏡」(集英社文庫)の中で語られていた「順序」というものである。

 最も簡単な物語の語り方は、はじまりから始め、物語が終わるまで、あるいは聞き手が寝るまで話すというものである。
   「小説の技巧」(白水社)ディヴィッド・ロッジ

 「物語が語られる時間軸」というのは、物語が時間軸のどの地点から始まり(読者に対し語られだして)、どの時点に収斂していくか 、ということである。もしも、いたって原始的な物語であれば、背景から話を始め、原因・過程を話し、そして結果を話すことになる。

 あるいは、その逆に、たとえば推理ドラマであれば、まず冒頭で、「事件が起こる前・過去」と「ぼやけた形で描かれる事件が起こった瞬間」が描かれる。そして、そのあとの物語は、その瞬間・時点へと逆に遡っていくのが普通である。つまり、結果から原因・背景へ向かっていくのが通常のミステリの「方向性」である。
 語りの順序における斬新な実験の例として思いつくものは、ほとんどが犯罪や悪行や道徳的・宗教的な罪に関するようなものである。
   「小説の技巧」(白水社)ディヴィッド・ロッジ
 だからこそ、たとえば刑事コロンボの場合は、その物語が語られる時間方向性が、原因→結果という時間の流れそのまま、というところに「意外性」があったわけだ。

 北村薫は「語りの順序が、現在→過去というように流れる物語」に関して、このようなことを書いている。内容を抜粋するために、少し書き方を書き直すならば、それはこのようになる。

 ピラミッドを逆さまにしたように、最後に「出発点・背景」が描かれれば、その一点は、物語の冒頭から語られた「それ以降に起こったこと」のすべて重みがのしかかる。そして、出発点はその重みに歪み、過去と未来のコントラストは、ますます鮮やかになるのだ。

 「普通人間のいちばん好きな考え方は因果関係です」と言ったのは心理学者の河合隼雄で、「人は、因果関係を納得しやすい。というか、因果がないと、物事の関係性を納得しにくい生き物なんだよね、人って」と書いたのは、小説家の新井素子だ。

 彼らの言葉を、「物語が語られる順序」と「因果関係」が描かれたパズルのピースを並べようとするなら、どんな風に人は並べたがるものだろうか。あるいは、そんなピースに描かれた模様は、人によってどのように違って見え、どのように違って組み合わされるものだろうか。



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