hirax.net::Keywords::「欲望」のブログ



2009-11-09[n年前へ]

罵倒的・批判的・懐疑的気分を抱きつつ上昇欲や絶望を飼いならす 

 高田里惠子「グロテスクな教養 (ちくま新書(539))」から。

 斎藤美奈子は現在でも女性誌で得々と生き方やら恋愛やらを語るセレブたちを見ると、「正直、ケッってな気分にならないでもないけれど、情報自体は女性誌ならではのものもあって結構役に立つ」と言っているが、女性誌読者というのはたいてい、半分はそのように罵倒的・批判的・懐疑的気分を抱きつつ、半分は自分の上昇欲や絶望を飼いならしているのだろうと想像できる。

2009-12-21[n年前へ]

僕らが見たつもりになっている世界 

 森達也の(小中高生に向けて書いた)「世界を信じるためのメソッド―ぼくらの時代のメディア・リテラシー (よりみちパン!セ) 」から。

 つまり物事は、どこから見るかで全然違う。なぜなら世の中の現象はすべて、多面的だからだ。
 わかりやすさは大切だ。学校の授業だって、わかりづらいよりはわかりやすい方が良いに決まっている。でもね、ここで大切なことは、僕たちが生きている今のこの世界は、そもそもとても複雑で、わかりづらいということだ。
 何かを撮るという行為は、何かを隠す行為と同じことなのだ。
 もう一度書くよ。僕たちはメディアから情報を受け取る。そして世界観を作る。でもそのメディアの情報に、大きな影響力を与えているのも僕たちだ。メディアが何でもかんでも四捨五入してしまうのも、その四捨五入がときには歪むのも、実際の物事を誇張するのも、ときには隠してしまうのも、僕たち一人一人の無意識な欲望や、すっきりしたいという衝動や、誰かわかりやすい答えを教えてくれという願望に、メディアが忠実に応えようとした結果なのだ。

 学生時代、写真館でアルバイトをしていた。結婚式の写真を1,2mmトリミング(切り取る)するだけで、ずいぶん違う写真に変わることに驚かされた。たった2人しか写っていない写真でさえそうならば、たくさんの人たちがいる世界を写したはずのものは、ほんの少しのトリミング次第で、どれほどに大きく変わってしまうものなのだろうか?

2010-08-25[n年前へ]

「自分が心動くものを追いかけていきたい」 

 「働かないという選択肢があってもいい」 "リア充ニート"phaが考える社会とのかかわり方

──将来に対してビジョンってあるんですか。

pha 動き続けていたいですね。今やっていることにこだわって、それをやり続けるとかじゃなくて、自分が心動くものを追いかけていきたいっていうのがあります。

2011-01-27[n年前へ]

「自分の中」や「できること」が見えますか? 

 何年か前のNHK朝の連続ドラマ、「ちりとてちん」のDVDを借りて、ノートPC で眺めていると、こんな台詞が聞こえてきました。

「自分の中にないもんやろうとしたらあかんで。

 「できるかわからないこと」を引き受けるかどうか考えるとき、「それをできるか」どうかをということに頭を悩まされると同時に、「それが自分の中にあるか」ともついつい考えてしまいます。なぜかというと、「自分の中にないもの」をしようとしても、どうしても、いつか気持ちが続かなくなって・・・、結局できなくなってしまうからです。

 「できること」と「自分の中にあること」は違います。「何かをできるか」ということと「その何かが自分の中にあるか」ということは、決して同じことではないのだろうと思います。「自分の中にあるけれど、できないこと」ということもあるのかもしれませんし、「自分の中にないのに、できること」ということも、もしかしたら、あるのかもしれません。「ずっと、できなかったことなのに、いつかできるようになる」こともあるかもしれないと思ますし、「今はできても、ずっと続ける気持ちにはなれないこと」だって、あるのかもしれません。

 「自分の中」や「できること」は、見ることができるのでしょうか。それとも・・・見ることはできないものなのでしょうか。

 さてさて、今日のタイトルはテレビドラマ「不揃いの林檎たち」のサブタイトル意識です。この記事の「関連お勧め記事」を読み進めると、色んなテレビドラマや、そのサブタイトルが浮かんでくるかもしれません。

2011-07-16[n年前へ]

「道具」と「”できる”という可能性」 

 まだ涼しい夏の朝早くに自転車に乗って、横浜を通り鎌倉を過ぎ、熱海に行きました。電車や車に乗って行くのが普通と思いこんでいた場所に、近くのコンビニに行くのと同じように、自転車に乗って辿り着くことが”できる”というのは、とてもワクワク・気持ち良くします。

 真鶴から岸壁の下の海を見下ろしながら、熱海から伊豆半島を眺めながら、「このワクワクする感じは、何か知っているものと似ているような気がする」「それは一体何だったろう?」とずっと考えていました。

 「そうだ!”できる”ということにワクワクしているんだ」「”できる”という可能性・”できた”という結果にワクワクしているんだ!」と、熱海ビールを飲み・熱海で温泉に浸かりながら思いつきました。もしも、アルキメデスだったとしたら、「ユーレカ!(わかったぞ!)」と叫び・全裸で熱海の海に走り出したかもしれません。もちろん、その場合には、熱海駅前にある静岡県警の交番に連行されること間違いなしです。

 コンピュータを買って、プログラミングをした時もそんなワクワクを感じました。SF小説やジュブナイル小説の中で読んだ未来の可能性を「自分で実現”できる”」という衝撃的なワクワクは今でも覚えています。そんな新鮮な楽しさは、ずっと変わらず続いているような気がします。

 もっと軽い自転車を買ったり・部品を交換したくなります。そうすれば、もっと遠くへ・いつでも行けるような気がします。…そんなことを太平洋の海と波を眺めつつ考えていると、「あっ、これもPC買いたい病と同じだ!」と気づきました。それは、新しいパソコンを買うと、何か新しいことが”できる”ような気がして、巨大な物欲のビッグウェーブが襲ってくるという病気です。あるいは、新しい楽器を買えば、今はできない演奏を(いつの間にか)することができるようになる、と思いこむ病気です。

 「いかん、いかん…」「道具に頼るより、まずは自分の力をつけなくちゃいけないな」と消費の欲望を振り払いながら、ふとこんなことも考えます。新しいモノを買い、そのワクワク感が、何か新しい”思いつき”や”可能性”を産むこともあるのではないか、と想像します。道具は何かを達成するための道具に過ぎない…けれど、その道具が私たちの衝動や欲望を突き動かし、新たな可能性へと誘(いざな)っていたりいたりもするのではないか、と思います。

 道具は道具に過ぎないと同時に、道具こそが欲望という魔術を操りヒトを猿から人間へと変え・未来への変化を続けさせている黒幕なのかもしれません。

「道具」と「”できる”という可能性」








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