hirax.net::Keywords::「道具」のブログ



2010-12-26[n年前へ]

「未来や道具」は「自分で作る」 

 「自分が欲しいと思えるデジタルカメラ」を作りたくてコードを書いています。自分が欲しいデジタルカメラというものを言い換えるなら、「(自分が持ち歩く道具を)自分ならこう作りたい」と思うようなものです。

 たとえば、最近のケータイやデジカメは、CMOS方式のものが多いように思います。静止画像を撮影するにはCMOS方式はメリットが多いですが、こと動画を撮影するとなると(多くのCMOS方式のカメラでは)「動きの速いものを撮影すると、グニョグニョ曲がってしまう」というデメリットが生じます(もちろん”それとは異なる”メリット、も多いわけですが)。たとえば、下の動画のような撮像素子がCCDのビデオカメラとCMOSのビデオカメラで撮影した動画を眺めてみれば、そんな違いがわかると思います。

 自分で使う道具なら、そんなデメリットを適当に自分で直したくなります。たとえば、カメラが動いてしまうことで撮影対象がグニョグニョ曲がってしまうなら、カメラの動きを加速度センサや撮影画像から推測することで、適切な画像補正を行いたくなります(CMOSの読み出し順がわかっているのですから、比較的簡単に補正をすることができるでしょう)。あるいは、撮影動画の動き(オプティカルフロー)から、撮影対象が動いている確率が高いと判断されるなら、その推定された対象物の動き方をもとに「グニョグニョ現象」を直したくなります。

 いつかどこかでこんな言葉を眺めました。

誰かが未来をつくってくれると思ったら、
大間違いです。
そうだよな、と思います。「未来」なんて大層なもののことはよくわかりませんが、少なくとも「自分が使う道具のひとつくらい」は自分で作ってみたいな、と思います。

2011-07-15[n年前へ]

道具と希望 

 もう十数年近くに書いた、たとえば今日の7月15日に書いた「(7/14に書いた)日記」から。(年月日表示の近くにある[n年前へ]というリンクは、そんな過去日記と未来日記を見ることができるリンクです)

「希望は厄難?それとも善?」
「もちろん、善。それ無しじゃ人はいきられない」
「じゃぁ、パチンコ屋で人が見る希望は?」
「それはimbalanceな希望」
「imbalanceな希望は善いもの?」
「希望は厄難?それとも善?」
「希望は道具と同じ」
「道具に善いも悪いもないでしょう?」
散歩の途中で富士山に登った人はいない。
まずは、登ろうと思うことです。
「夢」=睡眠中に生活経験のごとく生起して目覚めると同時にはかなく消える、一種の幻覚。
 誰にでも見ることのできる場所に書いてしまっているということが、私の気持ちをずいぶんと和らげることもあるなぁ、と強く感じてます。
 ”爆乳”女優さんのスカウトにどのくらい時間がかかるものなのかを訊いて聞いてみた。想像していたのは「新宿駅前で丸一日立って、スカウトし続けますよ」といったようなものだった。けれど、想像とはその答えの軸は全然違っていた。
 「明日、○×県に期待している人がいるので、スカウトしに行きます」…答えは「人が集まる場所で何時間スカウトをする」というような時間軸の話ではなかった。東京から数百キロ以上離れた遠くまで、そんな空間軸の向こうにスカウトの相手が一人いるという事実だった。

2011-07-16[n年前へ]

「道具」と「”できる”という可能性」 

 まだ涼しい夏の朝早くに自転車に乗って、横浜を通り鎌倉を過ぎ、熱海に行きました。電車や車に乗って行くのが普通と思いこんでいた場所に、近くのコンビニに行くのと同じように、自転車に乗って辿り着くことが”できる”というのは、とてもワクワク・気持ち良くします。

 真鶴から岸壁の下の海を見下ろしながら、熱海から伊豆半島を眺めながら、「このワクワクする感じは、何か知っているものと似ているような気がする」「それは一体何だったろう?」とずっと考えていました。

 「そうだ!”できる”ということにワクワクしているんだ」「”できる”という可能性・”できた”という結果にワクワクしているんだ!」と、熱海ビールを飲み・熱海で温泉に浸かりながら思いつきました。もしも、アルキメデスだったとしたら、「ユーレカ!(わかったぞ!)」と叫び・全裸で熱海の海に走り出したかもしれません。もちろん、その場合には、熱海駅前にある静岡県警の交番に連行されること間違いなしです。

 コンピュータを買って、プログラミングをした時もそんなワクワクを感じました。SF小説やジュブナイル小説の中で読んだ未来の可能性を「自分で実現”できる”」という衝撃的なワクワクは今でも覚えています。そんな新鮮な楽しさは、ずっと変わらず続いているような気がします。

 もっと軽い自転車を買ったり・部品を交換したくなります。そうすれば、もっと遠くへ・いつでも行けるような気がします。…そんなことを太平洋の海と波を眺めつつ考えていると、「あっ、これもPC買いたい病と同じだ!」と気づきました。それは、新しいパソコンを買うと、何か新しいことが”できる”ような気がして、巨大な物欲のビッグウェーブが襲ってくるという病気です。あるいは、新しい楽器を買えば、今はできない演奏を(いつの間にか)することができるようになる、と思いこむ病気です。

 「いかん、いかん…」「道具に頼るより、まずは自分の力をつけなくちゃいけないな」と消費の欲望を振り払いながら、ふとこんなことも考えます。新しいモノを買い、そのワクワク感が、何か新しい”思いつき”や”可能性”を産むこともあるのではないか、と想像します。道具は何かを達成するための道具に過ぎない…けれど、その道具が私たちの衝動や欲望を突き動かし、新たな可能性へと誘(いざな)っていたりいたりもするのではないか、と思います。

 道具は道具に過ぎないと同時に、道具こそが欲望という魔術を操りヒトを猿から人間へと変え・未来への変化を続けさせている黒幕なのかもしれません。

「道具」と「”できる”という可能性」






2011-12-14[n年前へ]

「書くこと」を決める「道具」を作る、ということ 

 自分のサイトの「走り書き」として、ハイバー日記システム(hns)を入れたのが、10年以上前。その頃書いた走り書きは、今の時代の"twitter"で書かれているようなことだった。思ったことを、ただ書いていた。

 hnsという道具をカスタマイズしつつ使っていたけれど、hnsに書く内容も少しづつ変わった。変わったのは、読み手を意識せざるをえなくなった、ということが一番の理由だったと思う。インターネットという道具に、「思ったこと」のうち、「考えたこと」は書くにしても、「感じたこと」はあまり書かなくなった。

 その後、サイト自体をすべてRailsという道具で構築し直した。HTMLベタ書きの記事と日記(hns)を統合し、サイト記事をArticle, Memo, Logo, Techlogという4つのクラスに分類した。Articleは、「ある程度まとまった技術的な内容で、何らかのオチを含むもの(できるかな?)」、Memoは「自分で作った何らかのもの」、Logoは「(読んだ・見た)メモしておきたい他人の言葉」、Techlogは新技術情報や技術メモ、だ。

 自分が使う道具を、そういう分類・考えのもとに作った結果、ArticleクラスはMemoクラスに浸食され、そしてまた、「感じたこと」や「考えたこと」も書かなくなった。

 そこで、(まったく使う気がなかった)twitterを使ってみることにした。もしかしたら、後で思い起こしたくなる「考えたこと」や「感じたこと」を扱うことができるかもしれない。

 そろそろ、道具を作り直すべき時期が来ているのだろうか。「書く内容」をも決めてしまうだろう「道具」を作り直すとしたら、どういう風に作れば良いだろう?

 そしてまた、こう思う。道具の名前が「日記」でも、「ブログ」でも、「書くこと」を決める「道具」を作る側には(そこから作られる)世界をどうしたいかという 「夢」と「覚悟」がいる、と思う。

「書くこと」を決める「道具」を作る、ということ






2012-07-16[n年前へ]

「乗り物」と「ミューズ」と「逃げる」 

 from 「n 年前へ

 電車や車に乗って行くのが普通と思いこんでいた場所に、近くのコンビニに行くのと同じように、自転車に乗って辿り着くことが”できる”ということは、とてもワクワク・気持ち良くさせます。
 クヌース「という」アメリカの数学者と話したとき、である。「ドナルド・クヌースと話した時」ではなく、つまりは「読者はしらないだろうが、あるアメリカの数学者と話したとき」だ。
 小島寛之さんの言葉の近くに、はてな近藤社長の「逃げる」という言葉が書いてあります。その言葉を最初に眺めたとき、力強い文字とその言葉がどうも似合わないように思えて、ふと首をかしげたのでした。ずいぶん消極的な言葉にみえて、意外に感じたのです。  その違和感が消えたのは、しばらくしてスポーツ解説のテレビを眺めてた時でした。…「逃げる」という言葉は、私が思ったような消極的な言葉ではなく、「苦しくても、力一杯アタックし続ける」という覚悟の言葉だったんだなぁ、と思い至ったのです。
 道具は何かを達成するための道具に過ぎない…けれど、その道具が私たちの衝動や欲望を突き動かし、新たな可能性へと誘(いざな)っていたりいたりもするのではないか、と思います。



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