hirax.net::Keywords::「道具」のブログ



2008-11-03[n年前へ]

hirax.net::mobileと「後で読む」 

 携帯電話からhirax.netを眺めることができるように、Railsの携帯電話用コントローラ(アクション)を書きました。アクセスURLは http://www.hirax.net/mobile/latest です。右上のQRコードがそのURLになっています。ちなみに、 上記URLからは、(結局は、「自分で作った道具」で「自分が作るもの」と「クラス分け」コトバを集めた"Logo"クラスで書いたように、全部Contentクラスの継承クラスだ(という作りにした) というだけの理由なのですが) "insideout""Tech-logs""Logos""できるかな?"のすべてが同じように扱われます。

 画像などは送出しないようになっていますから、今ひとつ内容は伝わりにくいとは思います。そういうわけで、説明図が必要になるような内容は飛ばし読みし、つまりは、電車中でのお暇つぶしに、雑文が役に立てば幸いです。

 また、PCで「後で読む」用に、携帯電話用ページに(はてな)ブックマーク用のアイコンを設置しました。その際に登録されるURLはPC用のURLです。つまり、同じ記事に対するURLではあっても携帯電話で(その時)アクセスしているURLではありません。あくまで、後で画像付き・レイアウト付きで(つまりはPCで)読み直すためのブックマークだという判断です。

2008-11-25[n年前へ]

「範囲(スコープ)」が決まると「構図(レイアウト)」が決まる 

 目の前にある景色を絵に描こうとすると、「構図(レイアウト)」を決めることがとても難しいことに気づかされます。少し見る方向を変えるだけで、その瞬間に姿を変えてしまう景色を、つまりはありとあらゆる方向に広がっている世界を長方形の平面に描くという作業はとても難しい、と思うのです。

 特に一番難しいと感じることは、ありとあらゆる方向に広がる目に見える世界を適当な「範囲」に切り取る、という作業です。もしも、写真機を手に持っていたならば(あるいはデッサンスケールといった道具を使うならば)ファインダーを覗くだけで「世界を切り取る範囲」を確認することができます。けれど、そういった道具がない場合、目の前の景色は本当にありとあらゆる方向に広がっていて、その限りない世界をどのように切り取るか・どんな範囲で描くかを、自分で決めるしかないわけです。

 その切り取り方を決めるということ、言い換えると、「範囲(スコープ)」を決めるということをとても難しく感じてしまいます。「範囲(スコープ)」を一度決めてさえすれば、「構図(レイアウト)」はきっと自動的に決まると思うのですが、最初の「切り取る範囲・描く範囲」を決めるということが本当に難しくて、できなくて困ってしまうのです。

 もしかしたら、画を描くということだけでなくて、技術的な題材も「範囲(スコープ)を決めれば構図(レイアウト)は自然と決まる」ことが多いのだろうか、とふと考えました。描く(作る)ものの範囲が決まれば、その時に使うことができる技法で描かれるものの配置・繋ぎ方・作り方が自然に決まるのかもしれない、とふと連想しました。さて、実際は一体どういうものなのでしょうか。

ラクガキ






2008-12-05[n年前へ]

西岡常一 「木のいのち木のこころ 天」 

木のいのち木のこころ―天・地・人 (新潮文庫)」(あるいは「木のいのち木のこころ〈天〉」)は本当に貴重な必読書だと思う。斑鳩大工の西岡常一が語った言葉を塩野米松が書いたこの本には、本当に色々な形の、それでいて重い言葉が詰まっている。

 時代は科学第一になって、すべてが数字や学問で置き換えられました。教育もそれにしたがって、内容が変わりました。「個性」を大事にする時代になったといいますな。
 しかし、私たち職人から見ましたら、みんな規格にはまった同じものの中で暮らしているようにしか見えませんのや。

 近くの図書館の蔵書にこの本が入っていたならば、迷わず借りて読んでみるといいと思う。とても高い密度の真理が、きっとこの本には詰まっている、と思う。そして、折に触れてこの本に書かれている「たくさんのこと」を何度も何度も読み返したい、と思ったなら自分のものとして買ってみると良いと思う。

 木そのものが精密やないんですから精密機械は無駄ですな。そのとき精密に削っても次の日には狂っていますやろ。 

 少なくとも、技術者になりたいと思っている人は、けれどこれまで読んだことがなかったというような人は、読んでみるといいと思う。絶対に、そう思う。

2009-02-10[n年前へ]

「技術者」と「もしも」 

 「もし」と「もしも」の違いについて話題にしていると、ある(私が尊敬する)先輩技術者のひとりがこんなことをいった。

技術者は「もし」という言葉は使わないかもしれないなぁ。「もしも」という言葉は、リスクを考える状況において使うかもしれないけれど。
 なるほど、確かにそうかもしれない。「もし、○×な場合には~」というような言葉であれば、それは、「○×な場合には~」でも構わないわけである。「そのような場合」は当然考えている状況なのだから、わざわざ「もし」をつける必要がない、ということになる。

 ただし、やはり「もしも」というような状況、かなりの想定外の状況での対応は迫らざるをえないことも多い。だから、そんな時には、「もしも、○×のようなことが生じたら~」というフレーズは、技術者が使うことがある、というのだ。

 文章を書く道具は、書かれる文章の内容を変えるという。それとは逆に、何かを語る時には、その語る相手・状況といったもの次第で、その言葉を語る口癖が生まれてくるのかもしれない。

2010-01-19[n年前へ]

悪用できない技術は偽物である 

 石黒浩の「ロボットとは何か――人の心を映す鏡 (講談社現代新書) 」から。

「悪用できない技術は偽物である」
 これが私の持っている一つの基準だ。技術とは世の中を変える可能性があるものである。逆に世の中にまったく影響を与えない技術は、意味のない技術であって、技術とは呼べない。その技術の使い方次第で、悪いこともできれば、よいこともできる。



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