2009-11-30[n年前へ]
■ああ、あんなことを言ってしまった、してしまった。
何か気になったものがあれば、そのことに関する本を手に入る限り読むことにしている。だから、たとえば、向田邦子に関する本は、たぶん、すべて読んでいる。
ああ、あんなことを言ってしまった、してしまった。
何度目になるだろうか、「男どき女どき (新潮文庫) 」を読み返す。「男どき女どき」は、前半の小説でなく、後半のエッセイが良い。
私は、自分の中にこういう要素があることを知っていました。
彼女が書く本を読んでいると、言葉をそのまま読むのでなく、一人部屋で万年筆を走らせる姿を想像しながら読んでしまう。たとえば本書中の「独りを慎む」を読むのなら、そこに出てくるさまざまなモチーフ、たとえば、ここにこの話になぜわざわざ車の事故をも紛れ込ませたのだろう、などと思い悩んでしまう。
人が見ていないと、してはいけないことをしようとしてしまう癖です。
書かれたことを、言葉どおりに受け取ってはいけない。けれど、書こうとした思いはそのまま受け取る。それが、こういう随筆の読み方のひとつかもしれない。
2009-12-08[n年前へ]
■一生のうち二年や三年、ばくちでメシが食えたって、それはアルバイトみたいなものだ。
色川武大「うらおもて人生録 (新潮文庫) 」から。
プロと言う観点からみると、一生のうち二年や三年、強くて、ばくちでメシが食えたって、それはアルバイトみたいなものだ。ばくちのプロなら、ほぼ一生を通じて、ばくちでメシが食えなければね。
2010-03-08[n年前へ]
■”大きな”ところのバランスシート
色川武大の「うらおもて人生録 (新潮文庫) 」から。
でも、全勝なんて、幻だからね。
俺はね。世の中とうまく折り合いをつけて、スムーズに栄えていく人を見ると、「あ、そんなに小さな勝ち星にばかりこだわっていいのかな、大きなところのバランスシートにも神経を使わないと、ご破算になるぜ」なんて思うんだね。
負け慣れている奴の発想なんだろうけどね。
2010-03-10[n年前へ]
2010-04-21[n年前へ]
■「星新一 一〇〇一話をつくった人」の350頁から次の頁にある言葉
最相葉月の「星新一〈上〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫) 」を読んで、坪内祐三が書いた書評のラストがこの文章である。
先に私は、誰もが星新一を読んだことがあるはずだ、と書いた。逆にいえば、みな、星新一を卒業してしまう。
それから星新一の苦悩がはじまる。それがこの評伝の一番の読み所とも言えるラストスパートだ。
「文庫本を狙え!」 616 週刊文春 「文春図書館」
下巻の三百五十頁から三百五十一頁にかけてを私は何度も読み返している。こう書かれると、その頁に一体どんな言葉が綴られているか、知りたくてたまらなくなる。
この文庫本は、三年前に出た単行本「星新一 一〇〇一話をつくった人 」を文庫として出版したものだ。文庫版は、先日出たばかりの本だから、「私は何度も読み返している」というのは、ひと桁程度の「何度か」なのかもしれないし、あるいは、単行本を読んでの「何度も」なのかもしれない。
「星新一 一〇〇一話をつくった人」は単行本で読んだ。単行本を読みながら、最相葉月が書く星新一の物語は、愛が感じられていい、と思いつつ読んだ記憶がある。この単行本の一体何ページ目が「文庫本の下巻の三百五十頁から三百五十一頁」にあたるのだろう。坪内祐三が何度も読み返している、と書く文章は、一体、単行本ではどの頁にあるのだろう。