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2009-09-11[n年前へ]

おいしいお酒、ありがとう。 

 杉浦日向子の最後のエッセイ集 「杉浦日向子の食・道・楽 (新潮文庫) 」から。

 呑まなければ、もっと仕事ができるし、お金もたまる。たぶんそうなんだろう。ベットにもたれ、ゆるり、適量を満たしながら、なんてことのない一日に、感謝して、ほほ笑んでいる。間に合わなかった仕事、ごめんなさ、おいしいお酒、ありがとう。

 このエッセイ集の中に収録されている、ひと月ひとつ、愛用の酒器などを撮った美しい写真とエッセイ、全部で12か月分の「酒器十二か月」を眺めていると、色んな酒器を手に持って、色んなお酒を飲んでみたくなる。

 今日も、ちゃんと酔えて、よかった。あした間に合うね、きっと。

2009-09-12[n年前へ]

「病」という「気難しい客」にも、通じる言葉はきっと見つかる 

 十数年、難病と毎日をともにした、杉浦日向子の言葉(「杉浦日向子の食・道・楽 (新潮文庫) 」から)。

 こう見えても、わたしは十年以上の中堅病人だ。立派な病名を医者から与えられ、ちゃんと通院(時々入院)しながら、処方箋の薬を飲み、頑張らない日常を過ごしている。
 病は誰にとっても歓迎されざる客だ。いつの間にか上がり込んで、身内のような顔で(もっとも身の内だ)居座っている。
 江戸のころ、「闘病」という言葉はなく、「平癒」といった。
 たて籠った珍客は、偶然か必然か、ともあれ、自分の身体を選んで侵入し、居座った。
 気難しい客だけれど、通じる言葉は、きっと見つかる。長年、病人をやっていると、そんな気がするのです。

「99%の努力」を支える「1%の才能」 

 「努力」と「才能」という文字を前にすると、特に、「99%の努力と1%の才能」というような言葉を目にすると、少し考え込んでしまいます。そういうわけで、下の「関連お勧め記事」にあるようなことを書き連ねているのだろう、と思います。

 下に書き写した杉浦日向子の言葉を読んだとき、ふと「なるほど」と思わされました。( 「杉浦日向子の食・道・楽 (新潮文庫) 」中の「体に悪いスポ根」から)

 秀でたスポーツ選手は、1%の才能と99%の努力から成る、といわれる。その、1%の才能こそが、99%の努力を支えるのであって、ベルモット抜きのドライマティーニがありえないように、ほんの微(かす)かな才能の香りすら見いだせなかったら、努力のきっかけもまた得られないではないか。1%が重要なのだ。

 「努力」するか否かが大切だけれども、それでは「努力」をする意思・その意思の支えは何なのだろう?という問いに、あなたならどう答えるでしょうか。

 ちなみに、この「体に悪いスポ根」は、杉浦日向子がスポーツ競技に対し、「運動神経に関し1%の才能もない側」から書いたエッセイです。

 そして、自分は、運痴で良かった、とほっとする。

2009-09-13[n年前へ]

十の単位で十分なこと 

杉浦日向子 「杉浦日向子の食・道・楽 (新潮文庫) 」から。

 数値は、風向きを知る予報であって、自分の健康の出来不出来ではないと思う。ことに、年齢、身長、体重、スリーサイズ。それらは、十の単位で認知していれば十分なことで、それなりに安定していればOKのはずだ。わたしたちが持つ、命の力は、たぶん数字では測れない。

2009-11-22[n年前へ]

「時間」は「辛い思い出も」「美しい思い出」も公平に消し去る 

 自転車に乗り小一時間ばかり走ると、古い家屋に囲まれた公園を見つけた。そこで、リュックから「硝子戸の中 (新潮文庫) 」を取り出して読みふける。

 彼女は、その美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱きしめていたがった。不幸にして、その美くしいものは、とりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷そのものであった。二つのものは紙の裏表のごとく、とうてい引き離せないのである。
 私は彼女に向って、すべてを癒す「時」の流れにしたがってみなさい、と言った。彼女は、もしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥げていくだろう、と嘆いた。
 公平な「時」、大事な宝物を彼女の手から奪う代わりに、その傷口も次第に癒してくれるのである。

「硝子戸の中」 夏目漱石
 「時間」は「辛い思い出も」「美しい思い出」も公平に消し去っていく、という文章を読んだ後に、頁を閉じる。そして、多分、じきに忘れるだろう景色の中を自転車で走る。



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