2008-12-14[n年前へ]
■「解析的考察」と「数値シミュレーション」と「村上春樹」
複雑な現象を考察するとき、その現象をよく眺めた上で、その現象を扱える範囲で「解析的に考察する」道と、「数値的にシミュレーションする」道があるように思う。解析的な考察は因果関係を明瞭に説明してくれるけれども、解析的考察をするために現象をあまりに単純化してしまうと、それは現実からずいぶん離れたものになってしまう。
それでは、複雑な現象をそのままに観察したり、数値的なシミュレーションを行えば複雑な現象の向こうに、それを超える何かが見えてくるかというと、そういうわけでもないように思える。どんな「原因」がどんな「結果」を作り出すか、「結果」を生み出す「原因」は一体何かということは結局のところわからないことが多いように思う。数値シミュレーションという名の水晶玉を通して因果関係をおぼろげに語ってくれるけれど、それはやはり明瞭なものではない・・・のが普通であると思う。
とはいえ、課題とされる「結果」を解決・改善するために、そういった数値シミュレーションは行われることが多いわけだから、つまりは、課題とされる「結果」を生み出す原因が示し、「課題を解決する対策」をしたいのだから、因果関係が明らかにならない・・・というのでは少し困ってしまう。
数値シミュレーションプログラムを四六時中書いている人と雑談していると、村上春樹の話題になった。その人が語る村上春樹の魅力を聞いていた時、ふと、「河合隼雄の人生読本」の中で、河合隼雄が「ねじまき鳥クロニクル」を解説していた一節を思い出した。
現代人は何事にも「原因」とか「理由」とかがあり、それを見いだすことによって、「解決」できると思い込みすぎている。理由が不可解なままで・・・
P.236 「河合隼雄の人生読本」
しかし、考えてみれば、複雑な現象が単純な因果関係で説明できるわけもないのである。それでも、そんな複雑極まりない現象・世界をコードで書き下ろして何かを見いだす作業をしている人に勧められた「ねねじまき鳥クロニクル」は、いつか読んでみようと思いつつもまだ読んでいない。
2008-12-21[n年前へ]
■「すいかの匂い」の「解説文」
本の最後に付いている「解説」を読むと、その本を読んで感じたことが的確な言葉で書き表されていて、自分の思いを再確認することができたりする。あるいは、その本を読んだのに感じられなかったこと、読解力・想像力が足りなくて、自分で読んだだけでは気づかなかったことを教えられたり、する。
江國香織「すいかの匂い (新潮文庫)」の解説文は、川上弘美が書いている。江國香織と川上弘美、どちらも魅力的な文章を書く。だから、江國香織の文章を、川上弘美の文章が解説する「すいかの匂い」はポケットの常連だ。
江國さんにおいていちばんすばらしいのは、「どんな言葉をここにあてはめるか」ということに関する選択眼だと思う。江國香織の「すいかの匂い」を読んでみる。しばらくしてから、川上弘美が解説する「江國さんのひみつ」を読む。自分が感じたこと、けれど言葉になかなかできないことが、当たり前のように表現されていると、何だか少し気持ち良い。
工芸品をつくる職人さんのような技だと思う。完成した作品はとてもなめらかなので、どんな技を使ったか、すぐにはわからない。わからないけれど、確かに技は使われている。わからないということが、何より、技を使ったしるしなのだ。
すいかの匂いに出会うと、いつも江國香織を思い出す。そして、顔を上げてその匂いの先を眺めてしまう。
2009-06-04[n年前へ]
■星新一の「願望」と「冷めた眼差し」
最相 葉月の「あのころの未来―星新一の預言 (新潮文庫) 」から。
最相 葉月:生活が便利になる、いわゆる”明るい未来”は割と肯定的に描いていらっしゃいますね。
星 香代子(星新一夫人):それは、あの人の願望でしたから(笑)。・・・星は、頭の中で材料を組み替えながら、自分の願望と冷めた眼差しで人と社会の行く末を見つめていたような気がします。
(p.326)
2009-06-08[n年前へ]
■それぞれの「物語」が必要とされる「現代の難しさ」
河合隼雄と村上春樹の「村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫) 」の、河合隼雄による「後書き」から。
病を癒すものとして「物語」というのは、実に大切なことだと思っている。現代はそのような物語を一般に通じるものとして提示できないところに難しさがあるように思う。各人はそれぞれの責任において、自分の物語を創り出していかねばならない。
2009-08-15[n年前へ]
■自分の「欠点」
色川武大の「うらおもて人生録 (新潮文庫) 」から。
欠点のうちで、他人にいちじるしく迷惑をかけそうなもの、これは自分にとってもマイナスが大きいから、押し殺すにかぎる。自分が生きようとする方角に、まったく沿わない欠点、これも不適当だ。
何がいいか、それぞれ自分に合わせて考えるよりしようがないが、とにかくあまり流暢に(すらすらと)に生きようとしないことだね。生きにくくて悩むくらいでちょうどいい。