2005-04-17[n年前へ]
■紙と仕事や伝言の量
紙が素晴らしい大きな理由の一つは「紙がモノである」ということだと、ふと考えた。電子ペーパーの資料を読みながら、そんなこと考えた。
例えば、かつて「本」は知識という形のないものを「本」というモノに物体化した。あるいは、「(紙のような媒体の上に描かれた)絵画・写真」といったものは「景色や世界という形がありそうで、その姿をなかなか形にすることができないもの」をモノという物体に変えた。
あるいは、例えばポストイットはよく伝言やメモを貼り付けたりすることに使われる。それが素晴らしいのは、伝言やメッセージを「一枚のポストイット」というモノとして姿を現させることである。モノとして伝言やメモが姿を見せていれば、人はそれを把握しやすいに違いない。だから、ポストイットはそういう使われ方をし、そして大ヒット商品となったのだろうと思う。
伝言のポストイットや、紙書類や、写真や絵画といったモノとして姿を現された「何か」が、電子化の流れの中でまたモノとしての姿を消そうとしている。モノの姿をしているからこそ(少なくとも二十世紀までの)人が把握しやすかった何かがまた姿が見えないものになろうとしている。
「しかし、例えば机の上には仕事の紙書類があふれ、ディスプレイはポストイットの伝言で埋まっているじゃないか?」「そんなに世の中に紙が溢れているのだから、やはり紙より電子データにしないとダメなんじゃないの?」と思うこともある。だけど、それは紙が悪いのではなくて、単に世の中の「仕事や伝言」が多くなりすぎていることが原因かもしれない、と思う。それらの「仕事や伝言」が紙というモノとして姿を現しているから、紙が悪者に見えるけれど、それは紙というモノの形をした「何か」が多すぎるからかもしれない、と思う。電子化されたデータベースはえてして単なる「ゴミ箱」になりかねない。電子化 ≒ " > /dev/null"というようになってしまったりもする。それは、「何か」のモノという姿を変えたのではなくて、「何か」というモノの数が単に多いから捨ててしまったというだけだ。
もしかしたら、「私が電子メールにすぐに眼を通したり返事を書いたりできない」ことへの言い訳かもしれないですけれど、ね。電子メールの返事は必ず書くのですが、時間がかかるんですよ…、処理するまでに…。
2005-05-22[n年前へ]
■DHCメークアップシミュレータ
「デジカメやカメラ付携帯でとった顔写真」を相手に、パソコンの画面上でDHCのメーク商品を試して、いろいろなメークを楽しむことができる「DHCメークアップシュミレータ」 from 遊んで学ぶお父さん
2005-07-16[n年前へ]
2007-07-06[n年前へ]
■「物語」と「市場経済」
現代は大衆民主主義と資本主義と科学技術の時代である。人々は原則平等という権利と引き替えに、細かい差異化過程に巻き込まれ序列化されることを余儀なくされる。「科学とオカルト(池田清彦 講談社学術文庫)」は科学という積み木と隣り合うオカルトという積み木の姿を描く。そして、それと同時にこの本が描くのは、科学だけでなく資本主義と大衆民主主義という積み木とも隣接するオカルトの姿でもある。
「科学とオカルト 」P.7 はじめに
本屋に置いてある雑誌や駅に置いてあるフリーペーパーを眺めてみれば、たくさんのファッション・スタイルや数限りないグルメスポットが掲載されている。そんなたくさんの選択肢から自分なりのものを選んで自分に振りかけてみても、他人と自分の違いは、スターバックスで注文するコーヒーかホットドッグのトッピング程度の違いしかないことだって多い。
宗教という大きな公共性も身分制という規範も存在しない現代では、自分が何者なのかということを教えてくれるものは何もない。唯一、最大の公共性であり科学は、そういう問いには原理的に答えることができない。元サッカー日本代表の中田英寿は「自分探しの旅」へと出かけてしまい、須藤元気は格闘技のリングから「スピリチュアルな世界」へと舞台を変えた。「僕って何」という問いかけをする「一見さんに対し」、ほとんど全てのものが明確な答えを与えることはしないように、科学が一見さんが抱えるその問いに答えることはない。
「科学とオカルト 」P.148 現代オカルトは科学の鏡である
お客様は神様です。 三波春夫「お客様は神様です」という言葉とともに、スーパーにはたくさんのものが並び、私たちは自分が持っているお金の範囲で自由に商品を選ぶことができる。現代社会は、お金を持っている限り有効の神様チケットを持った人で満ちあふれている。それと同時に、そんな神様たちは「選択」という価格の付けられたチケットを持ってはいるけれども、選択に迷いがちで自分を見つけられない存在でもある。
幸か不幸か、社会はこの現実社会にはないものを物語という形で流布する。「かけがえのない私」というのも、こういった物語の一つである。消費者が望むものを誰かが生産する。需要のあるところには、必ず供給が生まれる。科学が生産できないものを現代の消費者が望むなら、そこには、必ず別の供給者が現れる。それが自由市場主義で動く現代社会なのだろう。消費者という神様は欲しいものに応じ、時には科学を選び、時にオカルトを選ぶのである。お客様という神様たちと、そんな神様たちの欲望に応える供給者が作り出していくのが、21世紀の世界なのだろうか。
「科学とオカルト 」P.149 現代オカルトは科学の鏡である
(「科学とオカルト」を書いた)池田の著書は、自分で考えるとはどういうことか、結局はそれを教えてくれる本なのである。
養老孟司
2008-04-23[n年前へ]
■「統計はビキニ水着」で「説明文は(ミニ)スカート」の法則
説明文の長さに関し、実に的確なアドバイスの一つが「説明文は(ミニ)スカートだ」という言葉だと思う。
Sentence length is like a girl's skirt: the shorter the better, but it should cover the most important parts.
(文の長さは女性のミニ・スカートのようなもので、短ければ短いほど良い。しかし、最も大切な部分はカバーしていなければならない)
ミシガン・メソッド(ミシガン大学で開発された言語教習の流儀)から広まった伝えられているこの言葉は、まさに必要十分な「長さ」の「説明文」である。
この「説明文は(ミニ)スカートだ」という言葉と良く似た表現を使って、「統計」というものをこれまた上手く現したものがある。それはこんな言葉だ。
“Statistics are like a bikini. What they reveal is suggestive, but what they conceal is vital.”
(統計というものは、女性のビキニ水着と同じだ。実に思わせぶりで意味ありげな魅力的なものがさらけ出されているがように見える。しかし、肝心な部分は隠されている)
Aaron Levenstein
しかし、考えてみればこの「統計はビキニ水着」「説明文は(ミニ)スカート」といった表現は、結構何にでも使うことができるものかもしれない。
「必要十分」が望ましいものに対しては、それがどんなものであっても「○×は(ミニ)スカートだ。長すぎても短すぎてもダメだ」と言うことができるだろう。
また、多くの商品・技術…つまりはほとんど全てのものが「○×はビキニ水着のようなものだ。…」という風に言うことができそうだ。たとえば、"Ruby on Railsはビキニ水着のようなものだ、なぜなら…" "ダイナミックリコンフィギュアラブル技術はビキニ水着のようなものだ、なぜなら…"という具合である。
実は、「ビキニ水着」でないものの方が少なかったりするのかもしれない。