2010-04-08[n年前へ]
■「神」と「紙」という無関係の連想。
小田光雄の「ブックオフと出版業界 ブックオフ・ビジネスの実像 」の冒頭に掲げられた、最後の部分から。
ひとは、自分の真の神をよく隠す。一時期、毎週のように、伊豆の各地を訪ね歩いた時、太宰治が景色を眺め過ごした場所に足をのばすこともあった。あるいは、身近な場所にあるそんな場所を眺めて、少し佇み、夕暮れを味わってみたりすることもあった。
太宰治『如是我聞』
話は、「神」から「紙」に飛ぶ。
書籍のようなものを考えるとき、一体どんな考え方でそれを扱うのが、一番みんなの役に立つのだろうか。一番、長く、みんなの役に立つ続けることができるだろうか。
本って、すごく丁寧に読めば、ずっと新品同様のままですよね。それをモノ主体の経済学でどのように扱うかは難しいところがあります。経済学では、本とかも一応「紙が減ってボロボロになる」とかいって、無理やり「使い切るから消費」という理屈をつけていたと思うんです。「紙」というメディアは、これからどうなっていくのだろうか。そして、その紙という「メディア」上に表現されたものごとは、これからどのように変化していくのだろうか。
松原隆一郎
2011-09-03[n年前へ]
■難しい漢字を書く人・書かない(書けない)人
小学生の頃、毎朝行われる漢字ドリル(テスト)が苦手でした。「読み」は不得意でなかったような気がしますが、「書く」ことがとにかく駄目だったのです。何しろ、7回連続(5点満点中)0点を取り、小学校六年生から五年生に「(バツとして)落第」したこともあったほどでした。
「小学生の頃」と書きましたが、今でも漢字を書くのは大の苦手です。苦手という言葉では美化し過ぎなほどで、私が手書きするメモはひらがなだらけ、ほとんど相田みつを状態です。だから、「漢字が書けなくたっていいじゃないか(ホントは良くない!)…だってにんげんだもの」とつぶやきつつ、いつもひらがなとごくごく簡単な漢字だけを書き連ねています。
いわゆる普通の日本語を書くときに、いったいどのくらい難しい漢字が使われているものかを知りたくなりました。そこで、Rubyで「テキスト中で使われている文字の平均画数」を算出するコードを書き、試しにいくつかの文章に対して解析を行ってみました。その結果が、たとえば、下の5つです(ちなみに、普通に使われる範囲のかな・漢字全体で平均画数を算出してみるとおよそ12画になります)。
- 「日本国憲法」平均6.8画
- 小栗虫太郎「失楽園殺人事件」平均5.5画
- 夏目漱石「吾輩は猫である」平均5.0画
- 太宰治「走れメロス」平均4.7画
- 相田みつを「にんげんだもの」平均3.4画
なるほど、日本国憲法は漢字が多いな、と当たり前のことを実感させられます。小栗虫太郎は漢字を多用しそうですし、漱石は太宰より漢字が多く、漢字が比較的少ない太宰よりも相田みつをはさらに漢字が少ない、という結果です。やはり、相田みつをは「画数少ない選手権のトップ1」です。
今回は5つほどのテキストのみをノミネートし、文章の「(平均)画数少ない選手権」を行ってみました。次回はもっと多くの各種文章に対し解析を行ってみようと思います。
漢字が書けなくたっていいじゃないか、
だってワープロじゃないにんげんだもの。
(いや、よくない)
2013-07-11[n年前へ]
■「時代は自ら前に進めるものだと信じよう」
2013年07月12日、たぶん±3歳くらいの同世代、「陰気な男でいいですか?」の日記にしびれました。
”オレの軌跡はどんなだろう。他人が見てもワクワクするものを作り、自分がワクワク出来るよう精進しよう。時代は自ら前に進めるものだと信じよう”
「勢い」というものは多分とても大事なことで、何かひとつの視点から見た景色を感じとり・的確に言葉として描き出すことができた時、その文章には「確かなリズム」が必ず伴うような気がします。それは、たとえば、 「知らないことは知らないと言おう。」の太宰治の「正義と微笑」のようなリズムです。
ぼくは、きょうから日記をつける。この頃の自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がしてきたからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格が作られる、ルソーだか誰だか言っていたそうだが、あるいは、そんなものかもしれない。
…これからは、単純に、正直に行動しよう。知らないことは、知らないと言おう。できないことは、できないと言おう。思わせ振りを捨てたなら、人生は、意外にも平坦なところらしい。岩の上に、小さい家を築こう。
僕は、来年、十八歳。
2013年07月12日の「陰気な男でいいですか?」、「オレが行かずに誰が行く。オレが読まずに誰が読む。オレの軌跡はどんな感じなんだろう」というリズムを、1980年代に青春を過ごした人が2010年代の今この瞬間に読んだなら、きっと(そこに)書かれていることと同じような心地になるに違いありません。
それぞれのコーナで紹介されている内容に偏りが感じられるが、それが筆者のマイコン人生の軌跡や時期を表していると思うとグッとくる。同じ日本でマイコンに全てを注いでいてもイロイロなルートがあったんだな。オレの軌跡はどんな感じなんだろう。
それはそれとして、当時のワクワク感を思い出して改めて感じる。他人が見てもワクワクするようなものを作って自分がワクワク出来るよう精進しよう。時代は自ら前に進めるものだと信じよう。明日も楽しく前向きに。
2014-03-10[n年前へ]
■絶好調の時も不調の時も…人生は、意外にも平坦な所らしい。
”絶好調の時も不調の時も同じように…”という言葉を読んで、太宰治「正義と微笑 」の一節を連想する。
夜、ヘレン・ケラー女史のラジオ放送を聞いた。梶に聞かせてやりたかった。…努力によって、口もきけるようになったし、秘書の言う事を聞きとれるようにもなったし、著述もできるようになって、ついには博士号を獲得したのだ。僕たちは、この婦人に無限の尊敬を払うのが本当であろう。
真面目に努力していくだけだ。これからは、単純に、正直に行動しよう。知らないことは、知らないと言おう。できないことは、できないと言おう。思わせ振りを捨てたならば、人生は、意外にも平坦な所らしい。
これから歩む道のりが、
花が咲き香る長閑(のどか)になれ、
とは願わない。
足か弱く、険しい山路は登り難くとも、
楽しき調べを、絶えず麓で歌うなら、
聴き勇気づけられる人も、いるやもしれない。
言葉のリズムや、可能性というか未来に向かう明るさが溢れる太宰治「正義と微笑 」は、万城目学あたりに、現代仮名遣いにして欲しい。