2001-12-21[n年前へ]
2002-02-03[n年前へ]
■映画のフィルムを並べたスクラップ
映画大好きの「元」少年少女達へ
先日、「お笑いパソコン日誌」で3次元画像ブラウザ「みょう絵」というものを知った。画像ファイルを日付や色の特徴などで三次元空間に並べてみる、というソフトだ。下の図がその「みょう絵」の動作画面だけれど、こんな風に三次元空間に配置された画像が散らばる中を「みゅぃーん」と動く感覚が結構気持ち良い。
で、その「みょう絵」をいじって
欲を言えば画像だけでなくて、色んな文章や音楽や気持ちとか、世の中のありとあらゆるものをこんな風にして眺めてみたいなぁ、と思った。あのころ撮影した写真や、眺めた景色や、読んだWEBサイトや…、とにかくありとあらゆるものを。と思った。すると、「お笑いパソコン日誌」のChic氏が
余談ですが、Windows XP はムービーファイルをサムネイル化してくれるんですが、あらゆるファイルをそうしてくれればいいのにと思ったり。と書いていた。それを読んで、「みょう絵」で一本の映画の中を覗いてみたいなぁ、と思ったのである。
映画が展開していくそのストーリーの時系列と、その中の色々な各舞台を三次元的に眺めてみたいと思ったのだ。そして、さらにはその映画の世界の中を三次元的に散策してみたいと思ったのである。
もちろん、それは映画の動画ファイルを静止画に展開して、それを「みょう絵」で開けばよいだけの話である。以前、動画ファイルを静止画に展開するアプリケーションを作ったこともある。
とはいえ、それを使って映画をキャプチャーしたファイルをそのまま静止画に展開するわけにはいかない。そんなことをしたら、ものスゴイ数の静止画ができてしまうからだ。1秒あたり約30枚もの静止画を含む動画をそのまま静止画に全部落としたら、一体どれだけのファイルができるだろうか?たった2分位の映画の予告編だって、展開したら何と3600枚である…。これだけの画像を読みこませたら、少なくとも私の遅いPCでは「みょう絵」がストライキを起こすことは確実だ。
そこで、映画の動画ファイルの中から、場面が変わるごとに一枚づつ静止画を抽出してみることにした。そうすれば、映画の中の色々な場面をそれぞれ一枚づつの画像として眺めることができる。そして、その画像を集めれば、その映画の色々な場面を一枚のノートにして見ることができるわけである。
というわけで、作ってみたのがこのAVI2Stillsである。いつものように、テキトーに仕立て上げただけだ。下の図がAVI2Stillsの動作画面である。ちなみに、この画面中で、TrigerLebelは場面変化を検出する感度を示すパラメータで、多分60位が適当だと思う。そして、SkipFrameは動画ファイルの中を何フレーム毎に調べていくかを示すパラメータである。展開スピードが気にならなければ1でも構わない。
このソフトができたところで、試しに - ロケット制作に憧れる少年達を描いた「遠い空の向こうに」"OctoberSky"( = 原作 "Rocket Boys"のアナグラム) - の中の各場面を抽出してみたのが下のスクラップである。予告編の中の各シーンが絵コンテのように抽出され、並べられていることが判ると思う。
こんな風に自分の好きな映画の場面を全部テキトーに抽出して、あとは「みょう絵」で眺めてみれば、その映画の世界を三次元的に散歩できるのである。というわけで、北村薫原作の映画「ターン」の予告編の世界を「みょう絵」で眺めてみたのが下の図である。
静止画では判りにくいけれど、立体的に配置された「映画空間」の中を散策してみるのは、やはりちょっと面白い。これで、欲を言えば各場面に近づくとその場面で流れていた音楽やセリフが聞こえてきたら、面白いと思う。それは、ムソルグスキーの「展覧会の絵」のようで気持ちが良いはずだ。そして、そうすれば気持ちが良いだけではなくて、今の「みょう絵」に足りない「画像だけではない何かをも眺めること」ができるわけだ。
またせっかくだから、「みょう絵」で眺めて終わりにするのも少しもったいないので、以前作った写真アルバム風のスクリーンセーバー"FilmStrip99"(手元のWindows2000では手直しが必要みたいだが…)で、白黒写真のコンタクトフィルム風のスクリーンセーバーを動かしてみた。それが下の画像である。映画のフィルムでなくて、写真のフィルム風だというところはご愛敬で許して欲しい。ちなみに、下の一連の画像は"SomeoneLike You"「恋する遺伝子」の予告編から変換したものである。
こんな風に自分の好きな映画の予告編などを使って自分用のスクリーンセーバーを作ってみるのも面白いと思う。今なら、たくさんの映画の予告編にオンラインでアクセスできるし、その予告編の動画ファイルがもしmov形式ならmov2aviを使って、それがもしrealvideo形式ならTinraを使えば、AVIファイルに変換できる。そして、今回のAVI2Stillsを使えば良いだけなのである。
ところで、こんな切り取った映画のフィルムを繋いだ一連のシーンといえば、ニューシネマパラダイスのラストシーンを思い出す。アルフレードの遺品、「主人公が覗き見ていた一連の場面」を繋いだシーンのフィルム、に主人公が涙したように、かつて少年少女だった映画大好きの人達がそれぞれ自分用のそんなスクラップフィルムを作ってみるのも面白いかも、と思う。そして、ふと思うことがあった時に眺めてみるのも、趣があるかも。
2002-02-11[n年前へ]
■めがねっこ大好き。
めがねを外すと美人になるは本当か!?
理系=めがねっこ大好き? 「どんな時に自分を理系だと思う?」と文系人間に聞かれた。私は「うむむ…」と答えに詰まってしまった。そんな私に、その文系人間はまるで勝ち誇ったような表情で「じゃぁ、理系と文系はどう違うと思う?」と畳みかけるように聞いてきた。この手の数限りなくある、「理系と文系」「男と女」はどう違う?という問いには立ち入ってはいけない、というのが私の家の代々の家訓なのであるが、ここで黙りこんでいては「勝ち負け」でいうところの「負け」だと思ったのか、理系の誇りを守るべく、私の口がいきなりしゃべり出した。
例えば、建築で言えば、鉄骨建築が理系で、プレハブ住宅が文系なのである。体で言えば、皮膚の感覚を大事にするのが文系で、骨から組み立てていくのが理系なのである。つまり理系は骨があるのである。そして、詩で言えば、散文詩は文系で定型詩が理系なのである。つまり、理系は型にこだわる部分があるのである。と、スキーのモーグル競技でコントロールを失い、コースアウトしてしまう選手のように私の口は暴走を続け、理系=めがねっこ大好き、という辺りではもう「勝ち負け」でいうところの「負け犬」であるようにしか思われず、理系の誇りを守るどころか、理系を単に汚しただけに終わってしまった。そこで、悔しさのあまり、今回は「めがねっこ」に対し理系的なアプローチで近づいてみることにした。そして、私が汚してしまった理系の汚名をすすぎたいと思うのである。だから、例えば理系は女子高生の制服が大好きなのである。色々ある女子高生をセーラー服(あるいはブレザー)という記号で記号・集合論的に取り扱うことを可能にし、その記号を言葉にし、ついにはその制服を見るだけで萌えることができるのである。それが理系なのである。
つまりは、「このアイドルがなんとなく好き」というのが曖昧模糊としたものが文系であるならば、「このアイドルがめがねっこだから好き」という確固とした意志それすなわち理系なのである。理系=めがねっこ大好きなのである。
「めがねを外すと美人になる」は本当か!?
よく、少女マンガなどで、「ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーをみかける。今はどうだか知らないが、少なくとも昔はよくそんなストーリーを見かけた。あれは果たして本当だろうか。そして、それが本当であるならばそれは一体どんな物理現象なのだろうか?そして、ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーと「めがねっこ大好き」というそ相反する二つの事象はどんな原因に基づいているのであろうか?それを理系的なアプローチで明らかにしてみたいと思う。
めがねはもちろん視力が悪い場合に、その矯正を行うための道具である。近視の人であれば矯正のために凹レンズをかけるし、逆に遠視の人は矯正のためには凸レンズをかける。凸レンズと言えば、虫眼鏡と同じで、何かの近くにレンズを持っていけばそれが拡大されて見える。また、逆に凹レンズであれば、対象物が小さく見える。
だから、近視の人が凹レンズである眼鏡をかけた場合には、その人の目が他の人からは小さく見えてしまうのである。実世界でも、少女マンガの世界でも大きな瞳は美少女の象徴であるが、近視の人が眼鏡をかけると、大きな瞳を持つ美少女でもちっこい瞳になってしまうのである。
試しに、仲間由紀恵に凹レンズの眼鏡をかけさせた場合の、シミュレーションを行ってみたのが下の結果である。左のめがねをかけた「近視の」仲間由紀恵は確かにキレイではあるけれど、右の仲間由紀恵の方が、美少女という魔性の魅力という点で遙かに勝っていることが判るだろう。
そう、近視の人の場合には、「めがねを外すと美人になる」は物理的に本当なのである。近視の人の割合は国によって大きく違うらしいが、少なくとも現代の日本では近視の人の割合は圧倒的に多い。ほとんどの人が近視である、といっても良いくらいである。ということは、そんな日本では「めがねを外すと美人になる」はかなりな確率で事実である、と言えるわけだ。
それでは、「めがねを外すと美人になる」ということと相反するとしか思えない「めがねっこ大好き」現象をどう説明したら良いだろうか?一つは、遠視の場合先の近視の場合と逆のことが起きる、ということである。すなわち、遠視の人の場合には、眼鏡をかけると瞳が大きく見えるのである。すなわち、眼鏡をかければ、美少女の象徴たる大きな瞳が手に入るのである。
下の「遠視の」仲間由紀恵の場合の眼鏡シミュレーションを見てみると、めがねをかけたことでずいぶんと美少女度がアップしていることが判ることと思う。まさに、その瞳には魔性の魅力が宿っているとしか思えないほどなのである。
ということは、「眼鏡を外すと美人になる」は本当。ただし、近視の人の場合は、ということなのだ。そして、もし遠視の人であれば、「眼鏡をかけると美人になる」が本当なのである。
とはいえ、日本人では遠視の人は少ないわけで、それではめがねっこを増やす原因たる「眼鏡をかけると美人になる」が少なくなってしまう。そこで、他の原因を考えてみると、例えば近視の人が裸眼の時には瞳の口径を小さくすることで、被写界深度を深くする、すなわちハッキリとものを見ようとして、目を細めがちであること、すなわち小さな瞳になりがちであること、なども原因の一つとして考えられるだろう。
そしてまた、実は近視の程度が低い場合には、「めがねっこ大好き」現象を支えるもう一つの事実がある。レンズの度数がきつくなくて、他の人から見た瞳の拡大縮小が行われないような場合にも、眼鏡をかけると実は心理的に瞳の大きさが変わって見えるのである。
下の「目が小さい」仲間由紀恵は左右で目の物理的な大きさは完全に同じである。が、心理的には結構違って見える。眼鏡をかけた仲間由紀恵の方が目が大きく見えることが判ると思う。「目が小さい」場合、めがねをかけると瞳が大きく見えるのである。
「目が小さい」仲間由紀恵 | 「目が小さい」仲間由紀恵 |
日本人は目が小さい人が多いから、このような眼鏡をかけると心理的に瞳が大きく見える影響は無視できないに違いない。
ところが、目がもともと大きい場合には、この現象はそれほど大きく現れるわけではない。もともと瞳が大きいがために、眼鏡をかけたからといって割合的にそれほど瞳が大きく強調されたりはしないのである。その例を下に示す。下の二枚は目の物理的な大きさは完全に同じなのであるが、心理的に受ける瞳の大きさ=美少女度の違いは上の例ほどではないことが判るだろう。
「目が大きい」仲間由紀恵 | 「目が大きい」仲間由紀恵 |
ということで、
- 瞳が多きい近視の人の場合、眼鏡を外すと美少女になる
- 目が小さかったり、遠視だったりする人の場合、「めがねっこ」=美少女になれる
ところで、理系と文系…
さて、理系的「めがねっこ大好き論」も良いのだが、話をそもそもの「どんな時に自分を理系だと思う?」という問いに戻ろう。
よく私が見かけるパズルは大抵が論理的なパズルだ。論理的=理系ではないから、それを理系パズルと呼ぶのはいけないと思うが、あえてそれを理系パズルと呼んでみる。間違っているのを承知で、あえてここではそう呼んでみる。
そんな理系のパズルでもやっぱり色々あるだろう。大抵のそんなパズルの答えは答えがただ一つに限られるものだろうが、時にはその答えが無限にあるものもあるかもしれない、そして答えが一個もないパズルだってあるかもしれない。そしてまた、「答えを見つけられないこと」を証明できるようなパズルだってあるだろう。だけど、いずれにせよ、そのパズルを解く過程で現れようとする「割り切れない何か」は「それが割り切れる軸」を駆使することで、巧妙に消し去っていくことができる。だから、とてもそれは結構気持ちが良い作業だ。少なくとも、私にはそうだ。あるいは、答を判定するものが、自分ではない論理なり自然現象に任せられているから楽なのかもしれない。
だけど、もしそんな論理的なパズルとは違う非論理的なパズル、ここではあえて文系のパズルと呼ぶようなものがあったとしたら、その答えは「割り切れない何かを拾い集めたようなもの」であるような気もする。そして、その解く過程はもしかしたら割り切れない感情や雰囲気を拾い集めて、割り切れないままに何とか答えを投げ出しいく作業であったりするのかもしれない。それに、そこでは答を判定する何かなんかそもそも存在しないか、あるいはその判定する何かが人であるのかもしれない。
私には、そんな「割り切れないままに何とか答えを出していく作業」はちょっと辛いなぁと思う。やっぱり、私は理系パズルの方がずっと楽で気持ちが良い。だから、今度「どんな時に自分を理系だと思う?」と聞かれたら、そんなことを上手く言えたらいいな、と思う。いつも、思い浮かべたことを伝え続けたいな、と思う。