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2000-06-24[n年前へ]

「色っぽい声」の秘密 

キャバクラ嬢は英語が上手い!?

 以前、

 私は鈴が鳴るような綺麗な声がとても好きなのである。いつか、そういう声の秘密について調べてみたい、と思う。
と書いた。今回は「男を惑わす魔性の声」について考えてみたい。

 「男を惑わす魔性の声」といっても色々ある。私の場合、「鈴が鳴るような声」も好きだし、森本レオの声も大好きである。両極端であるが、本当なのだからしょうがない。それは他の人も同じで、その人ごとに好きな声と言うのは違うはずだ。などと言い出すと、どんな声が「魔性の声」なのかわからなくなる。そこで、「魔性の声」を出すプロに注目してみよう。「男を惑わすプロ」の出す声に注目してみるわけだ。

 「男を惑わすプロ」と言えば、例えばキャバクラそれともキャバレー?(どちらも、残念ながら行ったことないけど)で男性を手玉にとるキャバクラ嬢ははずせないだろう。彼女らの声はまさに「魔性の声」としか、言いようがない(行ったことないから、想像で書いてるけど)。例えば、

「あァ〜ン、もう社長さんたらァ。」
         ↑ココ
ァ〜の部分なんて、どうだ。これぞ、まさに「男を惑わす魔性の声」だという気がしないだろうか。この声に惑わされて、路頭に迷った彷徨える(エロ)子羊達の数は数え切れないはずである(多分)。今回はこの「色っぽい声」の秘密に迫ってみようと思う。

 さて、、まずはデータ収集が必要である。何より一番良いのは本物のデータを手に入れることである。すなわち、夜のキャバクラへ出撃するのが一番良いわけだ。私も「データの精度」にこだわる意味でも、ぜひそうしてみたい。使命感すらあると言ってもいいくらいである。しかし、残念ながら諸事情がそれを許さないのである。

 そこで、infoseekで「色っぽい声」で検索をかけて見つかった高等遊民氏のVOICE.WAVを使ってみることにした。聞いてみればわかると思うが、この色っぽい声は先のァ〜と同じような種類の声なのである。

今回はこの声に注目してみることにしよう。次に示すのが、高等遊民氏の「色っぽい声」中で解析を行った部分である。
 

高等遊民氏の「色っぽい声」中で解析を行った部分

 その部分を拡大してみると次のような音声波形である。この音声波形に「色っぽい声」の秘密が隠されているのである。
 

高等遊民氏の「色っぽい声」中で解析を行った部分の音声波形を示したもの

 さて、この音声波形に不思議なところはあるだろうか?「色っぽい声」の秘密の鍵となるところはないだろうか?そう考えながら、この音声波形を眺めていると不思議なことに気づいた。

 果たして、これは「あ」と言って良いのだろうか?これが「あ」であるという思い込みを私はしていたのではないだろうか?今回、一番最初に

「あァ〜ン」
と書いたが、特に意識はしなかったが「あァ〜」という変な書き方をしているのは、無意識のうちにこの「色っぽい声= 魔性の声」が「あ」でないと私のどこかが気づいていたのではないだろうか?

 例えば、次に私の声で「あ、え、お」を示してみよう。上の魔性の声「あァ〜」は下の波形で言えば、むしろ「お」とか「え」に近いのがわかるはずだ。
 

これは私の「色っぽくない声」


 もちろん、別人の声であるから音声波形が異なるのは当たり前だろう。そこで、フォルマントを調べてみることにした。それが下のグラフである。赤丸部分が「あァ〜ン」の秘密を解くポジションである。「あァ〜ン」のフォルマントと日本語の母音がどういう位置にあるかを表示したものである。
 

「あァ〜ン」のフォルマントと日本語の母音

 何と、そもそも日本語にはこの「色っぽい声 = 魔性の声」「あァ〜ン」を示すべき音がないのである。日本語にとってこの「色っぽい声= 魔性の声」は未知の音なのである。

 考えてみれば、それはそうかもしれない。人間誰しもよくわからないものには「恐れ」と同時に「好奇心」を刺激される。例えば、異性というよくわからないものに惹かれる気持ちだってその一例だろう。だから、少なくとも日本人にとっての未知の音であるものが「色っぽい声= 魔性の声」に感じられるようになったのは、ある意味当然と言えるのではないだろうか?

 「男を惑わすプロ」であるキャバクラ嬢が日本語の音の領域図を知った上で、この「色っぽい声= 魔性の声」「あァ〜ン」を発しているとは私も考えないが、少なくとも日本語の音の分布からすれば、「まさに男を惑わすツボを抑えている」ことがわかる。恐るべし、キャバクラ嬢である。

 日本語の母音だけではなんなので、英語の母音の領域も参考までにこれに重ねてみよう。それが下の図である。
 

「あァ〜ン」のフォルマントと日本語・英語の母音

 なんと、英語ではこの領域は「未体験ゾーン」ではないのである。「色っぽい声= 魔性の声」「あァ〜ン」の音は発音記号で言うとVの上下がひっくり返ったやつの領域に重なってしまうのだ。英語圏の人にとってはこの「あァ〜ン」は未体験の音ではないのである。私は英語の発音は涙が出るほど、上手くできないのであるが、もしかしたら「魔性の女性」達にとってはいともたやすくその発音ができるのかもしれない。

 ところで、先程の「知らない音 = 魔性の声」理論からすれば、英語圏の人にとってはこの「あァ〜ン」はそれほど「色っぽい声」ではないということになりそうだが、残念なことに私は生粋の日本人なのでそれを確かめることはできない。それに調べたら、きっとこの「知らない音 = 魔性の声」理論は崩壊してしまうだろう。

 さて、最後に色っぽそうな音を数学的に合成してみた。

あなたの感性が豊かであるか、想像力が豊かであれば、このいかにも人工的な音の中のにも「色っぽい声= 魔性の声」「あァ〜ン」のエッセンスが感じられ、心惹かれるはずである。

 今回は簡単にやっただけなので、この音の内容については詳しく説明はしない。次回(いつものごとく何時になるかは全然わからないが)、

  • Mathematicaで「あァ〜ン」- 色っぽい声を合成しよう - (仮題)
で詳しく説明したい。また、ここ10年以上使っていないKORG MS-20を使って「シンセで作るキャバクラ嬢」にもいずれ挑戦する予定である。
 

2002-02-11[n年前へ]

めがねっこ大好き。 

めがねを外すと美人になるは本当か!?

理系=めがねっこ大好き?

 「どんな時に自分を理系だと思う?」と文系人間に聞かれた。私は「うむむ…」と答えに詰まってしまった。そんな私に、その文系人間はまるで勝ち誇ったような表情で「じゃぁ、理系と文系はどう違うと思う?」と畳みかけるように聞いてきた。この手の数限りなくある、「理系と文系」「男と女」はどう違う?という問いには立ち入ってはいけない、というのが私の家の代々の家訓なのであるが、ここで黙りこんでいては「勝ち負け」でいうところの「負け」だと思ったのか、理系の誇りを守るべく、私の口がいきなりしゃべり出した。
 

 例えば、建築で言えば、鉄骨建築が理系で、プレハブ住宅が文系なのである。体で言えば、皮膚の感覚を大事にするのが文系で、骨から組み立てていくのが理系なのである。つまり理系は骨があるのである。そして、詩で言えば、散文詩は文系で定型詩が理系なのである。つまり、理系は型にこだわる部分があるのである。

 だから、例えば理系は女子高生の制服が大好きなのである。色々ある女子高生をセーラー服(あるいはブレザー)という記号で記号・集合論的に取り扱うことを可能にし、その記号を言葉にし、ついにはその制服を見るだけで萌えることができるのである。それが理系なのである。

 つまりは、「このアイドルがなんとなく好き」というのが曖昧模糊としたものが文系であるならば、「このアイドルがめがねっこだから好き」という確固とした意志それすなわち理系なのである。理系=めがねっこ大好きなのである。

 と、スキーのモーグル競技でコントロールを失い、コースアウトしてしまう選手のように私の口は暴走を続け、理系=めがねっこ大好き、という辺りではもう「勝ち負け」でいうところの「負け犬」であるようにしか思われず、理系の誇りを守るどころか、理系を単に汚しただけに終わってしまった。そこで、悔しさのあまり、今回は「めがねっこ」に対し理系的なアプローチで近づいてみることにした。そして、私が汚してしまった理系の汚名をすすぎたいと思うのである。
 

「めがねを外すと美人になる」は本当か!?

 よく、少女マンガなどで、「ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーをみかける。今はどうだか知らないが、少なくとも昔はよくそんなストーリーを見かけた。あれは果たして本当だろうか。そして、それが本当であるならばそれは一体どんな物理現象なのだろうか?そして、ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーと「めがねっこ大好き」というそ相反する二つの事象はどんな原因に基づいているのであろうか?それを理系的なアプローチで明らかにしてみたいと思う。
 

 めがねはもちろん視力が悪い場合に、その矯正を行うための道具である。近視の人であれば矯正のために凹レンズをかけるし、逆に遠視の人は矯正のためには凸レンズをかける。凸レンズと言えば、虫眼鏡と同じで、何かの近くにレンズを持っていけばそれが拡大されて見える。また、逆に凹レンズであれば、対象物が小さく見える。
 

凹レンズ(右)と凸レンズ(左)
凸レンズでは文字が大きく見え、凹レンズでは文字が小さく見えている

 だから、近視の人が凹レンズである眼鏡をかけた場合には、その人の目が他の人からは小さく見えてしまうのである。実世界でも、少女マンガの世界でも大きな瞳は美少女の象徴であるが、近視の人が眼鏡をかけると、大きな瞳を持つ美少女でもちっこい瞳になってしまうのである。

 試しに、仲間由紀恵に凹レンズの眼鏡をかけさせた場合の、シミュレーションを行ってみたのが下の結果である。左のめがねをかけた「近視の」仲間由紀恵は確かにキレイではあるけれど、右の仲間由紀恵の方が、美少女という魔性の魅力という点で遙かに勝っていることが判るだろう。
 

近視の場合
めがねをかけた「近視の」仲間由紀恵
めがねを外した「近視の」仲間由紀恵

 そう、近視の人の場合には、「めがねを外すと美人になる」は物理的に本当なのである。近視の人の割合は国によって大きく違うらしいが、少なくとも現代の日本では近視の人の割合は圧倒的に多い。ほとんどの人が近視である、といっても良いくらいである。ということは、そんな日本では「めがねを外すと美人になる」はかなりな確率で事実である、と言えるわけだ。
 

 それでは、「めがねを外すと美人になる」ということと相反するとしか思えない「めがねっこ大好き」現象をどう説明したら良いだろうか?一つは、遠視の場合先の近視の場合と逆のことが起きる、ということである。すなわち、遠視の人の場合には、眼鏡をかけると瞳が大きく見えるのである。すなわち、眼鏡をかければ、美少女の象徴たる大きな瞳が手に入るのである。

 下の「遠視の」仲間由紀恵の場合の眼鏡シミュレーションを見てみると、めがねをかけたことでずいぶんと美少女度がアップしていることが判ることと思う。まさに、その瞳には魔性の魅力が宿っているとしか思えないほどなのである。
 

遠視の場合
めがねをかけていない「遠視の」仲間由紀恵
めがねをかけた「遠視の」仲間由紀恵

 ということは、「眼鏡を外すと美人になる」は本当。ただし、近視の人の場合は、ということなのだ。そして、もし遠視の人であれば、「眼鏡をかけると美人になる」が本当なのである。

 とはいえ、日本人では遠視の人は少ないわけで、それではめがねっこを増やす原因たる「眼鏡をかけると美人になる」が少なくなってしまう。そこで、他の原因を考えてみると、例えば近視の人が裸眼の時には瞳の口径を小さくすることで、被写界深度を深くする、すなわちハッキリとものを見ようとして、目を細めがちであること、すなわち小さな瞳になりがちであること、なども原因の一つとして考えられるだろう。

 そしてまた、実は近視の程度が低い場合には、「めがねっこ大好き」現象を支えるもう一つの事実がある。レンズの度数がきつくなくて、他の人から見た瞳の拡大縮小が行われないような場合にも、眼鏡をかけると実は心理的に瞳の大きさが変わって見えるのである。

 下の「目が小さい」仲間由紀恵は左右で目の物理的な大きさは完全に同じである。が、心理的には結構違って見える。眼鏡をかけた仲間由紀恵の方が目が大きく見えることが判ると思う。「目が小さい」場合、めがねをかけると瞳が大きく見えるのである。
 

めがねっこチェック
「目が小さい」場合、 めがねっこの方が絶対可愛い〜。
めがねをかけていない
「目が小さい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が小さい」仲間由紀恵

 日本人は目が小さい人が多いから、このような眼鏡をかけると心理的に瞳が大きく見える影響は無視できないに違いない。

 ところが、目がもともと大きい場合には、この現象はそれほど大きく現れるわけではない。もともと瞳が大きいがために、眼鏡をかけたからといって割合的にそれほど瞳が大きく強調されたりはしないのである。その例を下に示す。下の二枚は目の物理的な大きさは完全に同じなのであるが、心理的に受ける瞳の大きさ=美少女度の違いは上の例ほどではないことが判るだろう。
 

めがねっこチェック
「目が大きい」場合 …う〜ん、あまり差がない〜。
めがねをかけていない
「目が大きい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が大きい」仲間由紀恵

 ということで、

  • 瞳が多きい近視の人の場合、眼鏡を外すと美少女になる
  • 目が小さかったり、遠視だったりする人の場合、「めがねっこ」=美少女になれる
などのさまざまな知見を理系的アプローチで見つけることができ、これまでの少女マンガなどに描かれたストーリー達が実は物理現象をこと細やかに描写した事実に即した観察日記であったことが明らかにされたわけである。

ところで、理系と文系…

 さて、理系的「めがねっこ大好き論」も良いのだが、話をそもそもの「どんな時に自分を理系だと思う?」という問いに戻ろう。

 よく私が見かけるパズルは大抵が論理的なパズルだ。論理的=理系ではないから、それを理系パズルと呼ぶのはいけないと思うが、あえてそれを理系パズルと呼んでみる。間違っているのを承知で、あえてここではそう呼んでみる。

 そんな理系のパズルでもやっぱり色々あるだろう。大抵のそんなパズルの答えは答えがただ一つに限られるものだろうが、時にはその答えが無限にあるものもあるかもしれない、そして答えが一個もないパズルだってあるかもしれない。そしてまた、「答えを見つけられないこと」を証明できるようなパズルだってあるだろう。だけど、いずれにせよ、そのパズルを解く過程で現れようとする「割り切れない何か」は「それが割り切れる軸」を駆使することで、巧妙に消し去っていくことができる。だから、とてもそれは結構気持ちが良い作業だ。少なくとも、私にはそうだ。あるいは、答を判定するものが、自分ではない論理なり自然現象に任せられているから楽なのかもしれない。

 だけど、もしそんな論理的なパズルとは違う非論理的なパズル、ここではあえて文系のパズルと呼ぶようなものがあったとしたら、その答えは「割り切れない何かを拾い集めたようなもの」であるような気もする。そして、その解く過程はもしかしたら割り切れない感情や雰囲気を拾い集めて、割り切れないままに何とか答えを投げ出しいく作業であったりするのかもしれない。それに、そこでは答を判定する何かなんかそもそも存在しないか、あるいはその判定する何かが人であるのかもしれない。

 私には、そんな「割り切れないままに何とか答えを出していく作業」はちょっと辛いなぁと思う。やっぱり、私は理系パズルの方がずっと楽で気持ちが良い。だから、今度「どんな時に自分を理系だと思う?」と聞かれたら、そんなことを上手く言えたらいいな、と思う。いつも、思い浮かべたことを伝え続けたいな、と思う。

2005-10-06[n年前へ]

魔性の女(男) 

 女や男やそんな話を喋るとき、この人の右に出るものはなさそうに思えるぽいんつさんの「魔性の女(男)

…一方、「あなた」だけ(に認められたい)という場合は、…複雑だし他人にはよさがわかりにくくなる。わかりにくいから魔性となる。
 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の一節が浮かびます。
なぜ恐ろしいかといえば、定義できないものだからだ、
 ぽいんつさんが最後に書くように、確かに魔性の男は「詐欺師」なのかもしれません。相手の見たい夢を見させる、というあたりもそんな感じですしね。

2007-10-06[n年前へ]

「ジョニーへの伝言」と「五番街のマリーへ」 

ジョニーが来たなら伝えてよ、私は私の道を行く。
It's OK to fail. 「失敗したって構わないさ」 トーマス・エジソン
 一方、「あなた」だけ(に認められたい)という場合は、複雑だし他人には良さがわかりにくくなる。わかりにくいから魔性となる。
 ジョニーが来たなら伝えてよ、二時間待ってたと。
 魔性の男は「詐欺師」なのかもしれません。相手の見たい夢を見させる、というあたりも確かにそんな感じですね。
なぜなら失敗が大きな成功の元となり、成功するための「力」を育てていくんだ、という言葉です。 そういう意識に溢れ、同時に「力」を持ち合わせている人たちを見る機会に恵まれています。
ジョニーが来たなら伝えてよ、わりと元気よく出て行ったよと。



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