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2004-07-22[n年前へ]

GRAPHICATION 働き方を考える 

 GRAPHICATION(グラフィケーション)は富士ゼロックスの広報誌である。といっても、ありがちなつまらない企業広報誌ではなく、とても読み応えある雑誌だ。無料で購読することができるので、購読していないという人にはぜひ購読申し込みをすることをお勧めする。

 今月のグラフィケーションの特集は「働き方を考える」というものである。二十代後半過ぎ〜五十代くらいまでの人はきっととても興味深く読むことができると思う。また、少し面白いのが、稲葉振一郎/玄田有史・中村達也・太田肇・中沢孝夫・杉村和美らによる特集記事だけでなく、天文学者 池内了のような連載陣も「働き方を見直す」というような特集テーマに対応した内容を書いていることだ。その機動力は少し驚きだ(池内了の対応力がすごいのかもしれないが)。

 特集記事の冒頭、経済学者の稲葉振一郎と玄田有史の対談は、現在の社会背景(IT、若年層の失業 等)を踏まえながら、内容の濃い、けれど読んでいてとても面白く目から鱗の話を語っている。

世の中には二つのタイプの研究者がいる。理路整然と嘘を言う研究者と支離滅裂だけど真実を言う研究者がいる。 川喜多喬
 こんな、興味を惹く言葉がこの対談にはたくさん詰まっている。また、さまざまな「IT化に伴う虚言」に対する対話内容も面白いのだけれども、「経済学とはどういう学問ですか?」と問われて、経済学者の石川経夫が答えた内容が実に心惹かれる。
この世は不公平なものだが、それぞれが努力すればそれに見合ったものをみんなが得られるようになる社会をどうすれば実現できるだろう、ということを愚直なまでに考えるのが経済学だ。 石川経夫
 また、石川経夫の「人格」という言葉に異を唱えて「人間に格はない」と言ったという一節も実に興味深い。「格付け」をしたがる自分たちを顧みると、目から鱗の言葉だ。

 ちなみに、天文学者 池内了が連載「現代科学の見方・読み方」の中で語る「忙しさが増す中での時間を作り出す四つの方法」は
 1. (便利そうに見える)テクノロジーは敬遠する
 2. 出張の際はマイペースに過ごす
 3. 何かに専念する日と専念しない日に曜日を分ける
 4. (信頼は得た上で)異端者になる
である。「(信頼は得た上で)異端者になる」という項目は面倒な仕事を増やしすぎないためには、とても効果的かも。実際にやろうと思うと、なかなか難しそうだけれども。

2005-05-05[n年前へ]

水戸黄門大学 

水戸黄門大学水戸黄門大学 水戸黄門大学. 地理学部・社会学部・音楽学部・理学部・美術学部・物理学部・史学部・文学部・家政学部・人間科学部・外国語学部・特別公開講座…と、充実しまくり。ちなみに、理学部では黄門さま御一行の移動続度の時速を算出していたりします。えっ?平均時速30km…だって!? えぇ、GPSで進路研究だってぇ…!?~

2005-09-26[n年前へ]

教科書に準拠した副教材の「著作権・使用料」問題 

平林 純@「hirax.net」の科学と技術と男と女/Tech総研 Tech総研ブログ 平林純@「hirax.net」の科学と技術と男と女2055年までの教科書に準拠した副教材の「著作権・使用料」問題 - 国語教育の副教材から、長い文章が消えていく!? - を書きました。
 教科書会社側の団体へわたる)一年間で1億8900万円の使用料」や、「(著作権者に届く)一年間で13円の使用料金」や、「一年間で400万円の(文部省からの)天下り会長の年俸」という辺りの話です。

そういえば、「火星に生命をさぐる」という私の父(天文学者)の文章が「小学校6年生の国語教科書」に昨年まで掲載されていました。その文章を読んで…

2006-01-26[n年前へ]

「ホーキング博士のインタビュー」 

インタビュー 第22回 スティーヴン・ホーキング 「実証と実践で宇宙に挑戦するJAXAと、イマジネーションと理論で宇宙の謎に迫るホーキング博士。アプローチの仕方は違っても、宇宙にかける強い思いに変わりはありません。JAXAの平林久教授(電波天文学)が、ホーキング博士にインタビューし、偉大なるホーキング博士の素顔に触れました」という(つまりは、私の父がインタビュアとなっている)「ホーキング博士のインタビュー

2007-07-01[n年前へ]

旧約聖書と「あぼーん」 

 先日、「文学を科学する」という本を読んで、こんな一節に惹かれた。

 文章は書かれて発表されたとたんに、書き手の所有物ではなくなるのです。
(その一方)作者の手を放たれたテキストは読者の所有物になるのではありません。それは、…膨大な言葉同士の関係に入り込むのであって、つまり作者のものでも読者のものでもなくなるのです。

 作者のものなら作者の解釈だけが唯一の真実ですし、読者のものならどんな恣意的な解釈も可能です。しかし、それが作者のものでも読者のものでもないからこそ、文学作品は常に新しい読み方ができる、いいかえれば繰り返し読むことに耐えられるものになるのです。

 「文学を科学する」 P.65 - 66
 この一節を読みつつ、ふと、巨大掲示板 2ちゃんねる の「あぼーん」という言葉を思い出した。問題がある発言が書き込まれた時、書き込みの題・内容・日時などがすべて 「あぼーん」と書き換えられるシステム、その「あぼーん」の語源を考えた時に考えたことが蘇ってきた。
投稿者の力が及ばない権限者が行う削除行為から、2ちゃんねる外の自分の発言やアカウント、またクルマやパソコンなどの私有物への表現にも使われ、あらゆる事柄に存在する「破損」「消失」「死」についての婉曲表現として「オレのPCがあぼーんした」などと動詞的に使われるようになった。

  はてなダイアリー あぼーんとは

 あぼーんの語源を検索すると、"a bone" (骸)という説や、マンガ「稲中卓球部」のセリフという説など、さまざまな説が出てくる。もしかしたら、作り手"ひろゆき"が異なる語源を語ったのかもしれないし、あるいは、たくさんの読み手たちが新しい解釈を、いつの間にか作り出していったのかもしれない。そんなたくさんある"あぼーん"の解釈の小さなひとつ、私が考えた"あぼーん"の語源は、こんな話だ。
 いつだったか、旧約聖書の解説書を読んだ。そして、創世記 第四章 「カインとアベル」の中に出てくるカインの過失・罰を意味する言葉が、本来のヘブライ語の聖書では「アボーン」という言葉だったということを知った。兄カインが弟アベルを殺した罪、その罪が故に、安住の地エデンから「エデンの東」へ追放されたことなどを一語で表現しているのが、ヘブライ語の「アボーン」である。その言葉を見たとき、これはまるで2ちゃんねるの「あぼーん」のようだ、と感じた。問題のある発言を掲示板の外へと移動させる「あぼーん」と、ヘブライ語「アボーン」は、三千年も時を隔てているけれど、不思議なくらいよく似ている。

初めに言葉があった。
万物は言葉によって成った。
言葉によらずに成ったものはひとつもなかった。

 新約聖書 ヨハネ福音書

 「文学を科学する」を読んだ頃、「インターネットのコメント・システム、異なる人たちが、時事についての意見を書き込むような場」から何が生み出されるのか、あるいは、どんな問題が起きてしまうのかを考える文章をよく見かけた。そういった文章を読みながら、同じ時期に旧約聖書と「あぼーん」について考えていたせいか、なぜだか思い出したのが、「全体は部分の総和以上のものであるか?」という、こんな文章である。

聖書は部分の総和以上のものであるか?
もちろん。
さまざまな物語や詩、それに異なるものの見方の混合が、個々の作者の夢にも思わなかったものを産み出した。

 「旧約聖書を推理する—本当は誰が書いたか
 R.E.フリードマン P.323



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