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2008-03-15[n年前へ]

魔法の「ライブ・トレイン」と「もう一つの幸運」 

 私たちが乗った魔法の「ライブ・トレイン」の方は、名古屋から東京国際フォーラムにライブ(Live)を見に行って、その方たちは素敵な景色を眺めたわけです。その『素敵な景色・できごと』『ほんの一瞬のそこだけで起こった魔法』には、実は「もう一つの幸運」が重なっていたのです。

 3月14日までは、東京駅始発で22:00ちょうどに発車する列車は「最終の名古屋行き ひかり433号」でした。つまり、あの方たちが乗り、終着駅の名古屋で降りた列車です。だからこそ、「ひかり」が終着駅の名古屋に到着したときに、TOKIOのAMBITIOUS JAPAN!がチャイム・メロディとして流れたわけです。

 しかし、3月15日から東海道新幹線は新しいダイヤで運行することになりました。新ダイヤで、東京駅のホームを20:00に発車するのは、新大阪行き のぞみ155号になりました。東京駅の15番線から発車する のぞみ155号 に乗れば、今日からも「魔法の瞬間」を眺めることはできるでしょう。けれど、「名古屋」はのぞみ155号の終着駅ではありません。だから、のぞみ155号から名古屋で降りる乗客の方々はTOKIOのAMBITIOUS JAPAN!で聞くことはできないのです。

 「ライブ(Live)の続きのような、あるいはライブの最後のようにも感じた」という、TOKIOが「たとえて言えばロング・トレイン。…未来に向かってまっしぐら」と唄うチャイム・メロディは、(名古屋から来た方々にとって)先週だったからこそ、体験することができた「素敵な魔法」だった、ということになります。そこには、新ダイヤに変わる前だったという「もう一つの幸運」が重なっていたのです。

 「魔法」を見るためのさまざまな条件が重なったのが、果たして偶然なのか、それとも必然なのかはわかりません。ただ、そんな「もう一つの幸運」を知るのも、何だかとても素敵だと思います。「素敵な魔法」の素敵らしさを濃縮した蒸留酒を手にしたような、そんな「素敵」が蒸留されたグラスを掌で包んでいる気持ちになりますね。

TokyoStation






2008-03-23[n年前へ]

「カラオケの(迷った時の)あの頃検索」と「とりあえずビール」 

 私たちが乗った魔法の「ライブ・トレイン」の「ライブR35」が行われるきっかけになった音楽アルバム「R35」を聴くと、1990年前半の音楽が流れていた頃の匂い・空気を、なぜか新鮮に思い出します。そして、その頃のカラオケボックスの景色が蘇ってきます。

 通信カラオケが出始めた頃で、「通信カラオケ」という最先端の言葉が(性能はともかく)客寄せに使われていて、まだLaserDiskを使ったカラオケも現役で、ガチャコン・ガチャコンと小さな小さな家内制手工業のようにメカニカルな音を出していたような気がします。そんな時代がクルクルとブーメランのように、浮かび上がってきます。ちなみに、カラオケボックスの匂いは、昔も今も、相も変わらずタバコの匂いのような気がします。

 そういえば、カラオケ・ボックスに行くと、リモコンのメニューには「あの頃検索」といったものが表示されているのが普通になりました。しかも、そんな「あの頃検索」の前には、「迷った時の」なんていうキャッチフレーズまで付いています。それは、何だか「とりあえずビール」の「とりあえず」と同じような優柔不断と迷いの感があります。

 そんな「迷った時の」あの頃検索を使い、カラオケ・ボックスというタイム・マシーンで時の流れの中を行き来していると、いつの間にか、安くもない・けれど高くもない、多いのが少ないのかわからない程度のお金が消えていきます。それは、「とりあえずビール」でビールを飲んでいるうちに、高くもない・けれど安くもないお金が飛んでいくのに似ている…なんて、ふと妄想したりします。

 と徒然なるままに書きながら、「カラオケの(迷った時の)あの頃検索」と「とりあえずビール」は結構いいな、と感じます。だって、だって人間だもの(by 相田みつを)。

あの頃検索1990年頃






2008-12-28[n年前へ]

「われわれの時代」 

 もっといい時代があるかもしれないが、これはわれわれの時代なのだ。
J.P.サルトル

2009-04-07[n年前へ]

広告が映し出す「時代」や「世相」 

JR東海・京都キャンペーンポスターの写真と文章(1993年秋からの)10年間分を収録した「そうだ 京都、 行こう。 」の「はじめに」から。

 「そうだ 京都、行こう。」の(1993年秋からの)この10年間は、20世紀から21世紀への移行の時と重なっています。バブルその後、情報化社会、グローバル化、ナショナリズム、環境問題、癒し、構造改革などなど、時代という言葉のまわりがとてつもなく賑やかでした。大きな地震災害も体験した。嘆いたり、憤慨したり、笑いたかったり、力づけてもらいたかったり、といろいろな人の思いがありました。本書を年代にそって読み進んでいくと、そんな時代や世相も見え隠れします。
 広告人たちは時代の気分に敏感すぎるのかもしれません。

2009-10-13[n年前へ]

単位は「取る」か「来る」か? 

 堀井憲一郎「若者殺しの時代 (講談社現代新書) 」から。

 単位を取る。僕たちはそう言っていた。1979年に30単位取ったときも、1980年に16単位しか取れなかったときも、僕はそう言っていた。
 最近の学生は「取る」とは言わない「来る」と言う。
 いつのまにか「単位」は「来る」ものになっていたのだ。いつからそうなったのか。歴代のアルバイトにさかのぼって、聞いてみた。1997年からだった。
 世界は自分の思いで動いてくれない。だから自分のまわりの世界を、ちょっと非現実的にとらえていたほうが、自分を守りやすいバーチャルが楽なのだ。
 だから努力してがんばっても、単位は「来る」のである。



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