2007-09-20[n年前へ]
■油と時間
電車の中で、ゴッホの油絵の断面がどうなっているかを想像する。
カムチャツカの若者がきりんの夢をみているとき
広重「名所江戸百景 大はし阿たけの夕立」から、三十年の時を経て、ゴッホが"Bridge in the Rain (after Hiroshige)"を 描く。その二枚の絵を同時に眺めることができる動画を作ってみた。
シミュレーション計算を作ったり、使ったりするには、確信犯的でなければダメだ。
実は色は“その色”の中に“別の色”を持っていて“他の色”と組み合わされて“また別の色”を見せているのだと思います。
三十年の時間の違いも、江戸とパリの遠い距離も、アニメーションGIFではほんの一秒ほどになる。
メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている
2008-01-25[n年前へ]
■「泪橋」と「思川」
「泪橋(なみだばし)」といえば、ボクシング漫画「あしたのジョー」の舞台となった場所だ。東京都北区王子の王子神社と南の飛鳥山の間から、石神井川の水をせき止め東へ流した石神井用水(音無川)が、王子→田端→西日暮里→日暮里と流れ、三ノ輪まできたところで流れが分かれ、その一つが思川として隅田川に白髯橋付近で注ぐ。その思川にかかっていた橋が「泪橋」だ。
泪橋という名前にはこんな由来がある。
浅草方面から来てこの水路にかけられた橋を渡ると、そこには当時「仕置場」と呼ばれた千住小塚原の処刑場がありました(今の回向院あたり)。処刑場に運ばれる囚人達がもう二度と戻ることのできないこの橋で、皆、泪を流したとも、見送りの人たちとここで泪で別れた、とも言われ、この橋が囚人達が「娑婆」と最期の別れを告げる場所となっていたようでした。このような成り行きで、この橋が「泪橋」と呼ばれるようになったのだそうです。
思川は荒川区と台東区の区境となっている。しかし、思川を見ることは、今はもうできない。思川の水の流れの上に「明治通り」が作られたからだ。泪橋も、現在では明治通りの上に掲げられた交差点の名前「泪橋」に姿を変えている。
冒頭の「あしたのジョーの一こま」を見たとき、ふと、あしたのジョーの「丹下拳闘クラブ」が思川の千住小塚原の処刑場側の橋下にあったことに気がついた。つまり、思川の「浅草と反対側の川辺」に丹下拳闘クラブが建てられていた、ということである。
ジョーが「あっ…」と叫び丹下拳闘クラブを見つけるシーンで、川の水は右から左に流れている。川の流れが「右から左に流れている」と見える理由はいくつかある。その中で一番大きな理由は、「漫画ではあらゆる”流れ”は右→左に進む」というルールである。ストーリーも読者の視線もすべてが右から左に流れる中では、描かれた思川も右から左に流れていると見るのが自然だ。思川は西から東に向かい隅田川に注ぐから、丹下拳闘クラブは、思川の北、かつての仕置場側にあったことがわかる。鑑別所・少年院を経て、浅草の山谷のドヤ街近くで練習をする「あしたのジョー」は、思川(おもいがわ)の仕置場側にいる。そして思川を越え泪橋を渡る。
「あしたのジョー」と、「娑婆」と「仕置場」の間に架けられた「泪橋」を渡る人たちを重ね眺めてみる。横断歩道に姿を変えた泪橋の交差点を眺め、道の下の思川を歩いて渡る人たちを見る。「思い(おもい)」と名づけられた川の上にかかる泪橋を渡る人を見る。
2008-01-26[n年前へ]
■江戸時代の地図で見る「泪橋」
「泪橋」と「思川」を江戸時代の地図で眺めてみる。今の東京が、昔の海や川や沼の上に浮いていることがよくわかる。大きく姿を変えている場所もあれば、変わっていない神社や池もある。
2008-02-16[n年前へ]
■「鯖街道」と「地獄八景亡者戯」
NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」で、涙なくしては見ることができない「地獄八景亡者戯」が演じられている。何週間かかけて、何人もの登場人物たちが、それぞれの人生に重ねた「地獄八景亡者戯」を演じる。その幾重にも重なる人生の姿に涙する人は多いと思う。
冥途を旅する……という話のルーツは随分古いものがありましょうが、これを滑稽なしゃれのめした物語にしたのは、(室町の狂言にもありますが)やはり江戸時代からでしょう。
「地獄八景亡者戯」は、鯖にあたって死んだ「喜ぃさん」の話で始まる。若狭の海から京都・大阪へと鯖を運んだ街道が鯖街道・若狭街道だということを思い返せば、何だか「地獄八景亡者戯」はとてもその鯖街道と似合ってる。
もともとこの話は、その時その時の事件や世相流行などをとり入れて、言わばニュース性を持たせてやる演出で伝わってきたものです。五世笑福亭松鶴師のは、私が聞いたのは戦後でしたが、昭和初期の赤い灯青い灯の道頓堀、カフェー全盛時代や、活弁の真似なんかがはいっていました。
このはなしの一応の原典と見てよいものは江戸時代の小咄本にありますが、各地の民話にもあり、また欧州の民話にもあるそうで、木下順二氏の「陽気な地獄破り」はこのヨーロッパの民話を基にされています。本当の原典は従ってよく判らないというのが答えと言えましょう。
小浜の町から若い(わかい)主人公 若狭(わかさ)が関西の街へ出て、年を重ねつつ色んなものを見る。そんな話と「鯖街道」と「地獄八景亡者戯」は、とても自然に重なっている。
その内に、これを十八番の持ちネタとして新しい「地獄八景」を作ってくれる人が出てくることでしょう。これは滅ぼしたくない話です。
2008-03-05[n年前へ]
■「広重」と「ゴッホ」について書いたこと
いくつかのものを並べて眺めてみたり、あるいは、まとめて平均して眺めてみた時、ようやく浮かび上がり見えてくるものがある。たとえば、安藤広重の「名所江戸百景 大はし阿たけの夕立」とゴッホが描いた"Bridge in the Rain (after Hiroshige)"をを眺めてみれば、江戸とパリで時間と距離を隔てて描かれた、けれど不思議なくらい線が重なる景色が見えてくる。そう思う。
広重とゴッホが描いた景色をモーフィングさせた時、その景色を眺めたとき、そのモーフィング画像の中に一体何が見えるだろうか。色の違いだろうか。それとも橋の設計の違いだろうか、それとも、歩く人の気配だろうか。顔料を通して見えてくる静謐感や躍動感だろうか。
並べて眺めることで、初めて見えてくるものの一つが「立体感」だ。ゴッホ(など)の絵画などの絵画を並べて眺めることで、立体的にゴッホが眺めた景色を私たちも見ることができたり、する。不思議なくらい、立体的に見えてきたりする。
広重「名所江戸百景」を3Dで再現しようという、"CG"名所江戸百景を眺めてみたり、114年前にゴッホが眺めた満月を眺めみるたび、とても不思議な気持ちになる。何しろ、空間や時間を、まるで透明人間のように、自由に行き来できるように(自分が眺めることができない、けれど、他の誰かが眺めている)景色を眺めることができるのだから。
「左下」の画像は広重の東海道五十三次の中の「由井」で、「右下」が「由比」でいつの日かに見た景色だ。長い年月を隔ててはいるけれど、多分、ほとんど同じような場所で眺めた同じような景色だ。たぶん、コンピュータで相対的な色ヒストグラムで解析でもすれば、きっと同じような景色に見える。けれど、人が眺めたら、全然違う時代の景色に見える。地形は同じだけれど、自体は全然違う景色に見える、きっと、そんな写真だと思う。
静岡県 由比にある「東海道広重美術館」の入り口には「版画体験コーナー」がある。「広重の東海道五十三次の「由比」を青・赤・黒の三色の版画で再現し、三色重ね刷りすることで、浮世絵の版画(世界初のカラー印刷技術)を体験しよう」というものだ。
色毎の位置合わせは、手でやるにせよ、機械がやるにせよ、とても難しいことだから、(色あわせに祖失敗した)「見当違い」の版画になってしうことも多い。少なくとも、私はそんな見当違いの版画を作ってしまった。けれど、そんな風に版画を作る体験はとても楽しかった。
カラープリンタが割に一般的になった現在、プリントゴッコで浮世絵を作ったりするのも新鮮で良いと思う。消しゴム版画で浮世絵を作ったりするのも、とても面白いと思う。