2009-11-07[n年前へ]
■11月7日に「生きる」
各作家たちが書いた名作短編集「きみが見つける物語 十代のための新名作 休日編 (角川文庫 あ 100-103) 」の恒川光太郎「秋の牢獄」から。
いつかあれに捕まる日が来ると思うから、それまではなるべく楽しんでおこうと寄り集まったり、旅行したりしているような気がするのだ。
もしも北風伯爵が存在せずに、11月7日がただひたすら永劫に続くとしたらどうだろう。私はやがて行動する気力を失い、朝起きたら、睡眠薬を買いに行き、あとは一日中眠るだけの日々を続けるようになる気がする。
私はもう充分に、楽しんだし、悲しんだし、苦しんだのだ。
ふと気付くと、今日は11月7日でした。これは、本当に不思議なくらいの偶然でしょう。それと同じように、不思議なくらい、この短編は「何か」が心に残り続ける物語です。
2009-12-03[n年前へ]
■江國香織が描く22人のインタビューイの物語
江國香織「十五歳の残像 」への感想から。
よくあるインタヴュー集とはひと味もふた味も違うものになっています。それはたぶんインタヴューアーとインタヴューされる側の発言をそのまま載せるスタイルではなく、江國香織が自分でインタヴューしたものを元にして、あらためてひとつの物語として完成させているからだと思います。
彼女が意図してたのかどうかは分かりませんが、この本を読んでると、インタヴューされる側がみな、江國香織の小説の中の登場人物のように思えてなりませんでした。インタヴュー集と言うよりは、江國カラーたっぷりのひとつの物語って感じです。
大人と子どもの間で揺れる、どっちつかずの少年時代。格好いい大人たちは、どんな15歳を過ごしてきたのか。江国香織の緩かなまなざしが、22人の思春期を鮮やかに甦えらせる。
2009-12-31[n年前へ]
■天馬空を行く
北村薫のデビュー作「空飛ぶ馬 」の最終段から。
人は誰も、それぞれの人生という馬を駆る。
蛇足、という言葉を体現・具現化してしまうのなら、さらに、もうひとつ文を書き写してみるのなら、短編集である「空飛ぶ馬」の最後を飾る「空飛ぶ馬」の冒頭近くから、この一節をも書いてみることにしよう。せっかくの、年を越す大晦日の夜なのだから。
天馬空を行く。自由闊達(かったつ)の譬(たと)えだが、そのイメージには暗い物語の最後に救いをもたらす大きさがあるような気がした。
2010-01-13[n年前へ]
2010-02-24[n年前へ]
■評論・エッセイが届くのは「賢い人」(だけ)ではないのか?
鴻上尚史の「ドン・キホーテのピアス」No.658 「物語という手段でしか届かないもの」から。
たぶん、評論やエッセイで届けることができるのは、じつは、「賢い人」なんじゃないかと思っているのです。
もっとガンコでもっと臆病でもっと弱くてもっと真剣でもっと壊れやすい人に届けるためには、物語という手段をちゃんと考えないといけないんじゃないか、と思いだしているのです。
この記事原文では、「賢い人」には括弧がついていません。つまり、賢い人と書かれています。しかし、あえて、上の文章では括弧を付けました。
そう改変した理由は、そうした方がより現実に近く・より普遍性を持つのではないだろうか、と私はそのように思うからです。そう思うので、括弧(カッコ)を上記文章に付加してみました。
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