2008-04-29[n年前へ]
■「手作り三次元グラフ」と"Life Work"
少し前に、「仕事」と「趣味」を、「本人(自分)の欲求」と「他人の満足」という2軸で表される実軸・虚軸で表現される複素平面に描いてみました。注釈を付けるまでもなく、この「仕事」も「趣味」にもカッコ(「」)が付いています。
カッコは、時に「いわゆるひとつの」という程度の意味を表したり、あるいは、時に「私の感じる言葉とは違うけれども、その人の使う言葉の定義に沿って使って・考えてみれば」というような意味合いで使われることがあります。だから、カッコ(「」)付の言葉が出てきた時には、あるいは、カッコ付の言葉とカッコが付かない言葉が同時に出てくる文章を読むときは、このカッコは何を意味しているんだろう?と考えると、その文章から何だか不思議な立体感を感じたりすることがあります。もしかしたら、それが文章の書き手の中の意識、書き手が眺めるものの距離感なのかもしれない、と感じます。
さて、「"複雑極まりない"複素平面」上に「仕事」と「趣味」を描くを書いた次の日、"Life Work"という言葉を使ったら、どのようなことを思い、どのようなものを描き・書くだろうか、と考えました。「仕事」という言葉から、"Work"という言葉を経て、"Life Work"ということを考えたらどう思うだろう?と感じました。
そして、もう一つ、「"自分(本人)の欲求・満足"と"他人の満足"という2軸で表される複素平面に、少なくとも"時間軸という軸を一つ増やしたい」とも強く思いました。私たちを大きく支配する軸でもあり、私たちにとって希少なものでもある"時間"という軸を増やしてみたいと、思ったのです。
そこで、そんな三次元空間を「ホワイトボード」と「色粘土」と「焼き鳥用の串」で作ってみました。下の写真が、その手作り”三次元空間(複素空間)”です。
誰かが行う何かの作業を考えたとき、この空間はその誰かの作業に対する"ある3つの軸による評価値"を示したに過ぎません。他にも数限りない色々な軸があり、色々な眺め方・受け止め方があるように思います。
また、同じような作業であったとしても、その作業をする人によって、この空間での「座標」は異なってくることでしょう。それは、たとえば「梅宮辰夫の"釣り"」と「釣キチの"釣り"」が、その作業内容が同じようなのに、商品価値(黒い横軸)としては大きく違ってしまうようなことです。
試しに、今の時点での「梅宮辰夫の"釣り"」を緑色の球で、「釣キチの"釣り"」を黄色の点で手作りプロットしてみました。もちろん、材料は色粘土と焼き鳥用の串です。
そしてまた、時間軸に沿って、誰かが行う同じ作業でも、その位置・取り扱われ方が異なってくることもあるでしょう。10年後にも「梅宮辰夫の"釣り"」が今と同じ商品価値を持っているとは限りませんし、逆に、「あなたの知り合いの釣キチの"釣り"」の方が他人に満足を与えているかもしれません。あるいは、ゴッホが生きている時点では、ゴッホの"Art Work"は収入源とはとても言えなかったわけですが、現在では、ゴッホの絵画を見るために人が集まり、その絵画を手に入れるためにたくさんのお金が集まります。
つまり、"誰かが行う何か"を示すこれらの点は、時間を経て動いていくのが普通だと思います。時代の変化にしたがって、何一つ違わない同じ"誰かが行う何か"なのに空間中を移動していって、商品価値を失ったりすることは、よくありそうに思われます。
また、その人の技術の向上といったさまざまなことを理由にして、これらの焼き鳥の串に刺さった色粘土、・・・じゃなかった、その人の作業自体が変わり、この空間における位置づけを変えていくこともよくあることだと思います。
先のことは、誰にもわかりません。「確か」でないことは、世の中に満ち溢れています。「この努力が報われる日が来るのだろうか?」「この釣り番組はいつまで続くのだろうか?」「(定年がある人であれば)定年の先には何があるんだろう」といったことをふと考えて、不安が沸いてくる人も多いことでしょう。
そんなことを考えているうちに、"小説家になりたい"という言葉に強く頷く人もいれば、"それじゃ意味がわからないよ。どんな小説を書きたいのさ?"という風に感じる人もいるだろうな、というようなことが何故か頭の中に浮かんできました。そして、さらに「"Life Work"って何だろう?」「"Life"って何だろう?」と、今更ながらに思ったのでした。
若き二ツ目が、さまざまな努力と工夫を重ねて暗中模索する姿を、私は美しいと見る。陽の当たらない場所で悪戦苦闘する二ツ目の中で、誰が将来の名手になるか。こればっかりは絶対にわからない。若くして天才ともてはやされた麒麟児が老いて駄馬になったり、ヘタクソの見本みたいだった人が五十代になって突然名人の域に飛躍したりする例が、落語家には少なくないからである。
江國滋 「落語無学」
そうそう、とりあえず一つだけ確実なことを見つけました。それは、「粘土遊びは楽しい」ということです。色鮮やかな粘土で、色んなものを作って遊ぶのは、とてもワクワクする、ということは「確か」なようです。
2009-09-20[n年前へ]
■「落語とは業の肯定である」
堀井憲一郎「落語論 (講談社現代新書) 」から。
立川談志は「落語とは業の肯定である」と言っていた。落語の本質をひとことで言い表している。つまり、「落語が表現しているのは、人間のおこないのすべてである」ということだ。人のおこないを論評せずに引き受ける。それが落語である。
2009-09-25[n年前へ]
■「のりしろ」という、ムダではない「ムダ」
瀧口雅仁「平成落語論─12人の笑える男 (講談社現代新書) 」から。
文化でいう「のりしろ」と言えばいいのか。ムダではない「ムダ」。あとになって切り捨てられるかもしれない部分があってこそ、芸というものの良し悪しは見えてくるのではと、最近強く思うのだ。
2009-09-26[n年前へ]
■「柳谷観音」と「話の舞台」
堀井憲一郎の「落語論 (講談社現代新書) 」を読んでいると、落語「景清」が登場していた。舞台となる清水観音と柳谷観音のうち、清水観音=修学旅行生が溢れる京都の清水寺の方は知らない人はいないだろうが、柳谷観音の方はそういうわけではない。関西ではそこそこ有名なのだとは思うが、他の有名寺社仏閣の山々に埋もれているように思う。
柳谷観音は、京都に近い長岡京市の山腹に位置している。竹林の丘や山を越え、急な峠道を上った先の山中にあるので、歩いて行くのも、自転車で行くのもかなりハードな場所である。何度か参拝した記憶はあるが、いつも車に乗って行った。地元の中高生などは、ランニングでこの辺りまで走りに来ることがあると聞いた時には、そして、実際にそんな学生たちを見た時は、思わず見とれてしまったくらいだ。10kmくらい山道を走るという学生たちの中に、自分がいなくて良かった…とつくづく思ったものである。
小説や落語の舞台、あるいは、ミステリや映画の舞台に行ってみるのは、とても面白い。そういった場所に行った後に、もう一度(その場所が登場する)本や映画を見ると、そういったストーリーがさらに身近に実感できる。「柳谷観音」に行けば、きっと「景清」をもっと楽しめるのだろうし、ナイル川に行けばクリスティをもっと楽しめるに違いない。
実際に行って、その場所の空気を吸った街には愛着が生まれ、親近感を覚えるものである。本を読むたび、その本に登場する町や場所の中に入って、少し暮らしてみたくなる。
■「老眼鏡」と「物は言いよう」
「老眼鏡」や「臨機応変」、今一つなイメージの言葉とポジティブに響く言葉、そんな言葉を少し言い換えてみると、同じ内容のはずなのに印象が大きく変わる…と笑いながら聞いている内に「話の世界」に引き込まれていく、立川志の輔「猿後家」。