2001-04-29[n年前へ]
■WEBとメールの文章と本人と
そういえば、少し前に「WEBやメールの文章の印象は実際に会う時の印象に比べて冷たい感じがする」と言われた。ふ〜む、自分ではよく判りません。他の人はどうなんでしょね?
と書いて、サーバーにこのファイルを転送しようとしたら、他の日記の今日の分にほとんど同じ内容が書かれていて、その偶然というかなんというかにちょっとビックリ。
2002-04-29[n年前へ]
2003-04-29[n年前へ]
■首都高速 渋谷近くで
首都高速でデジカメを目の前の景色に向けると、まるで近未来に視線を向けているような気持ちになる。しかも、次々と過去になっていくような、次々と過ぎ去っていく近未来にレンズを向けているような気持ちになってくる。
左手にハンドル、右手にカメラ、首都高を走る車の中で流していたのは「俺たちは天使だ」の主題歌だったSHOGUN歌う「男達のメロディ」。うー、このBGMはちょっと危険かも。
走り出したら 何か答えが出るだろなんて俺もあてにはしてないさ してないさ男だったら 流れ弾のひとつやふたつ胸にいつでも刺さってる 刺さってるどうせ一度の人生さ運が悪けりゃ死ぬだけさ 死ぬだけさ
■生徒が書いた通信簿
昨夜、生徒達が書いた授業の感想をもらった。授業が終わった後にせっせと書いてもらったもので、ビールを飲みながらその内容を次々と読み上げられたりして赤面したりもしたが、なかなかに好評だったようでそれはそれでホッとした。それらは、まるで「生徒が先生?に書いた通信簿」だけれど、なかなか得難い経験ではあったし、掛け値なしにとても面白かった。そんな経験をさせてもらって、感謝しているのである。その感想はおみやげにもらったので、あとで細目でそーっと読んでみることにしようっと。
それにしても、「巨人の工藤に似てるって言われませんか?」という感想に「そーかー、西武じゃなくて巨人なんだなぁ」と言い合った私たちはちょっと時代遅れなのだなぁと思ったのだった。
2004-04-29[n年前へ]
■上野公園・北千住
北千住での試合まで時間があったので、車を北千住に置いて、電車に乗って上野公園へ行ってみる。本当にたくさんの人達がいる。大道芸人を囲む大きな輪だっていくつもある。上野動物園は無料入園になっている。たくさんの人達がいる。老若男女、よりどりみどりだ。
人はたくさんいるけれど、何だかずいぶん昔の景色を眺めているような気がする。2004年の今日を眺めているはずなのに、パンダが日本に来た頃の景色を眺めているような気さえする。アトムが生まれたはずの年がもう過ぎているとはどうしても思えない。自分の目がおかしいのかと思い、携帯電話のカメラでそんな景色の写真を撮ってみても、やっぱり何だか昔の景色に見える。「真」を「写す」のが写真だと言うのなら、やはり今眺めている景色はきっといつかの昔の景色なのかもしれない。
そんな風に少し昔の?上野公園を歩きながら、何故だか「あぁ、今日はみどりの日なんだなぁ」とふと思う。少し感慨に浸りながら少し上野公園内を散策した後、北千住に戻る。もうすぐ、夕暮れ。試合まで、あと一時間。
■地球シミュレータの並列化率
試合を眺めながら、地球シミュレータを使っているチームメイトから「地球シミュレータで計算を流すための並列化率の審査」の話などを聞く。512ノード(4096台)並列化効率が50%を切らないためには、並列化率が99.98%が必要という世界には驚くばかり。遠隔ログインできないから、使うためにテクテク横浜まで訪ねて行くというのも納得か。
MPI実装で考えたネットワーク対応版"Neko"を早く作ろう。頭が何とか動くうちに。
2005-04-29[n年前へ]
■「歩いて伝わっていくこと」 その2
「歩いて伝わっていくこと」 の続きを読んでみる。阿部謹也氏曰く
行列が重視されるのは、たくさんの足が地面を踏んでいくことに意味があるからです。歩くとは、何もない空間を一歩一歩たどっていくことでその空間をだんだん見えるものにしていくことなんですね。
そういえば、たまにReferer RSSを眺めてみると、そんな行列や道を見ることができて面白い。誰かが、何処かのリンクから辿ってくる即席道路が見える。リンク元に張られている一言を見てみると、その人それぞれの「順番」「論理」をうかがい知ることができるようにも思う。「こういう理由・論理でリンクを張る」「リンク先にはこういうことが書いてある」という人それぞれの文を読むのは、なかなか興味深いものだ。人それぞれの引用の仕方で、時事問題に繋げられていたり、その人の勤務先の問題に繋げられていたり、色々あって面白い。
■「ページェント」と「ページ」
時折、WEBページなんていう書き方をする。そんな書き方をすることを振り返りながら、こんな阿部謹也氏の言葉を読むと色々考える。
人に見せるための行列をページェントなんて言いますね。ページェントとは、本などのページという言葉と関係があって、ページをめくるように見る行列のことなんです。…だから、順番は大切なんですね。
2006-04-29[n年前へ]
■チャレンジ!経済学
先日「経済学を勉強する」ために質問をして、質問に対する話を聞きつつホワイトボードにメモした板書です。さてさて、テープ起こししたインタビュー内容とこの板書を眺めながら、経済学の中のエンジニア? 47氏と経済学? ソーシャルブックマークと経済学? 能力給は現代の○×だ!? 「ハッカーと画家」を買うのは経済学的には何なのか?…などなど2時間分の色んな内容の中から、どの辺りの話をピックアップするかを決めてみることにしましょうか。





■緩やかなコミニュケーションと地球シミュレータ
今日の「n年前へ」は「ページェントとページ」「歩いて伝わっていくこと」「地球シミュレータの並列化率」「WEBとメールの文章と本人と」などです。
人に見せるための行列をページェントなんて言いますね。ページェントとは、本などのページという言葉と関係があって、ページをめくるように見る行列のことなんです。行列が重視されるのは、たくさんの足が地面を踏んでいくことに意味があるからです。歩くとは、何もない空間を一歩一歩たどっていくことでその空間をだんだん見えるものにしていくことなんですね。
2008-04-29[n年前へ]
■「手作り三次元グラフ」と"Life Work"
少し前に、「仕事」と「趣味」を、「本人(自分)の欲求」と「他人の満足」という2軸で表される実軸・虚軸で表現される複素平面に描いてみました。注釈を付けるまでもなく、この「仕事」も「趣味」にもカッコ(「」)が付いています。
カッコは、時に「いわゆるひとつの」という程度の意味を表したり、あるいは、時に「私の感じる言葉とは違うけれども、その人の使う言葉の定義に沿って使って・考えてみれば」というような意味合いで使われることがあります。だから、カッコ(「」)付の言葉が出てきた時には、あるいは、カッコ付の言葉とカッコが付かない言葉が同時に出てくる文章を読むときは、このカッコは何を意味しているんだろう?と考えると、その文章から何だか不思議な立体感を感じたりすることがあります。もしかしたら、それが文章の書き手の中の意識、書き手が眺めるものの距離感なのかもしれない、と感じます。
さて、「"複雑極まりない"複素平面」上に「仕事」と「趣味」を描くを書いた次の日、"Life Work"という言葉を使ったら、どのようなことを思い、どのようなものを描き・書くだろうか、と考えました。「仕事」という言葉から、"Work"という言葉を経て、"Life Work"ということを考えたらどう思うだろう?と感じました。
そして、もう一つ、「"自分(本人)の欲求・満足"と"他人の満足"という2軸で表される複素平面に、少なくとも"時間軸という軸を一つ増やしたい」とも強く思いました。私たちを大きく支配する軸でもあり、私たちにとって希少なものでもある"時間"という軸を増やしてみたいと、思ったのです。
そこで、そんな三次元空間を「ホワイトボード」と「色粘土」と「焼き鳥用の串」で作ってみました。下の写真が、その手作り”三次元空間(複素空間)”です。

誰かが行う何かの作業を考えたとき、この空間はその誰かの作業に対する"ある3つの軸による評価値"を示したに過ぎません。他にも数限りない色々な軸があり、色々な眺め方・受け止め方があるように思います。
また、同じような作業であったとしても、その作業をする人によって、この空間での「座標」は異なってくることでしょう。それは、たとえば「梅宮辰夫の"釣り"」と「釣キチの"釣り"」が、その作業内容が同じようなのに、商品価値(黒い横軸)としては大きく違ってしまうようなことです。
試しに、今の時点での「梅宮辰夫の"釣り"」を緑色の球で、「釣キチの"釣り"」を黄色の点で手作りプロットしてみました。もちろん、材料は色粘土と焼き鳥用の串です。

そしてまた、時間軸に沿って、誰かが行う同じ作業でも、その位置・取り扱われ方が異なってくることもあるでしょう。10年後にも「梅宮辰夫の"釣り"」が今と同じ商品価値を持っているとは限りませんし、逆に、「あなたの知り合いの釣キチの"釣り"」の方が他人に満足を与えているかもしれません。あるいは、ゴッホが生きている時点では、ゴッホの"Art Work"は収入源とはとても言えなかったわけですが、現在では、ゴッホの絵画を見るために人が集まり、その絵画を手に入れるためにたくさんのお金が集まります。
つまり、"誰かが行う何か"を示すこれらの点は、時間を経て動いていくのが普通だと思います。時代の変化にしたがって、何一つ違わない同じ"誰かが行う何か"なのに空間中を移動していって、商品価値を失ったりすることは、よくありそうに思われます。
また、その人の技術の向上といったさまざまなことを理由にして、これらの焼き鳥の串に刺さった色粘土、・・・じゃなかった、その人の作業自体が変わり、この空間における位置づけを変えていくこともよくあることだと思います。
先のことは、誰にもわかりません。「確か」でないことは、世の中に満ち溢れています。「この努力が報われる日が来るのだろうか?」「この釣り番組はいつまで続くのだろうか?」「(定年がある人であれば)定年の先には何があるんだろう」といったことをふと考えて、不安が沸いてくる人も多いことでしょう。
そんなことを考えているうちに、"小説家になりたい"という言葉に強く頷く人もいれば、"それじゃ意味がわからないよ。どんな小説を書きたいのさ?"という風に感じる人もいるだろうな、というようなことが何故か頭の中に浮かんできました。そして、さらに「"Life Work"って何だろう?」「"Life"って何だろう?」と、今更ながらに思ったのでした。
若き二ツ目が、さまざまな努力と工夫を重ねて暗中模索する姿を、私は美しいと見る。陽の当たらない場所で悪戦苦闘する二ツ目の中で、誰が将来の名手になるか。こればっかりは絶対にわからない。若くして天才ともてはやされた麒麟児が老いて駄馬になったり、ヘタクソの見本みたいだった人が五十代になって突然名人の域に飛躍したりする例が、落語家には少なくないからである。
江國滋 「落語無学」
そうそう、とりあえず一つだけ確実なことを見つけました。それは、「粘土遊びは楽しい」ということです。色鮮やかな粘土で、色んなものを作って遊ぶのは、とてもワクワクする、ということは「確か」なようです。



















