2000-07-29[n年前へ]
■The Spirit Level
Fair is foul, foul is fair.
この写真は九州阿蘇山の麓にある京大火山研究所を撮影したものだ。草で覆われただけの小高い丘の頂上に、この火山研究所の建物はまるで灯台のように建っている。それはあまりに広大な景色だったので、手元にあった小さなカメラではそのままでは全景を撮影できなかった。しかし、「その広大で、それでいて箱庭のような景色の一部分だけを切り出す」ということはしたくなかった。そこで、近くにあったカーブ・ミラーを通してその広大な景色を撮影してみた。カーブ・ミラーの凸面鏡で反射させることで、広角の撮影をしようとしたのだ。だけど、それはとてもぼやけたミラーをだったので、ねじ曲がってただのよく判らない写真になってしまった。だけど、それでもその景色の一部分を切り出すよりは良かったはずだと思っている。
この写真を撮影したのは、もう10年程前のことになる。その夏、私は二週間ほど中国・九州を旅行していた。それは普通の旅行ではなくて、観測のための旅行だった。GPSによる標高測定と水準測量による標高測定を同時に行うことで、ジオイド(重力の等ポテンシャル面のうち平均海面と一致するもの)の形状を調べようとする研究のための観測だった。といっても、私は単なる下働きだったから、何にも考えずただ昼は力仕事をして汗をかいて、夜は温泉に入ってビールを飲む、という何だかとても幸せな二週間だった。
GPSによる幾何的な標高測定に対して、水準測量による標高測定は各地点における水平面を基準として標高を逐次的に測っていく。ところで、そもそも標高とは鉛直方向に対する位置である。それなら、一体鉛直方向とは何だろうか?それは、水平面に対して垂直な方向としか言いようがない。水平面が定まれば、一意に決まるわけだ。それなら、それは確かなものかと言うと、それは違う。
何故なら、水平面自体が場所によって違うからだ。水平面というものは単純なものでは決してない。その周囲(または遠方)の質量の分布によっていともたやすく変わってしまう。重力場が変化するのだから、当然の話だ。水が重力に引っぱられて、重力の等ポテンシャル面を形成するのだから、質量分布によって重力場が変動すればその等ポテンシャル面である水平面は当然のごとく変動してしまう。
水平面・水準といったとても基本的な基準でさえ、地球の内部や外部の状態でよくわからなくなってしまう。それは、ものを伝える言葉だって同じことだ。そもそもの原動力や背景があってこその基準や言葉なのだから、中にどんなものを秘めているかで物事の基準自体が変わってしまう。人が見ているものだって、その背景できっとみんな違っていると思う。それらは実のところ、とてもあやふやなものなのだ。
だから、Fairなんてとても大切な言葉だって、人によってその意味するものは違うのだろう。例えば、今ここで"Fair"を例に出したのも、"Fairis foul, foul is fair."というマクベスの冒頭のセリフを知っていれば、「あぁ、そういうことか」とその意味するところを判るだろうし、その背景を知らなければ「何でそんなことをいきなり?」と感じるだけだろう。それだけのことだ。
ところで、水準測定を行う時の必需品が"Spirit Level"である。この"SpiritLevel"という言葉は、直訳した 「心・生命の高さ・水平」なんて意味では全然なくて、単なる「水準器」という意味だ。簡単に言ってしまえば、単に"Level"だ。"Spirit Level"もグラスの中のアルコールを傾けてみれば、その語源は想像がつくだろう。
確固とした基準になりそうな水準器でさえ、実はそんなに確かなものではないのだから、何かの確かなものがあるという思い込みこそ、実はとてもあやふやなものだろうと思うのだ。
2000-08-15[n年前へ]
2001-06-04[n年前へ]
■あなたの声が、すぐそばにある
高原の向日葵と月見草 編
昨日、東京駅の地下街にある「王様のアイデア」でこんなものを買った。見ての通り、ピストル型の集音マイク"SonicExplorer"だ。その数日前にその集音マイクを初めて見かけたのだが、遊んでみるとどうにも気に入ってしまって、次に見た時には必ず買おうと決めていたのである。
数日前に、その"Sonic Explorer"を見かけた時は出張帰りだったのだが、地下街の雑踏の中で「頭にヘッドホンを被り、ゴルゴ13のように集音ガンで狙っている」様子はさぞかしアブナイ奴に見えたに違いない。現に、私が雑踏の中に"SonicExplorer"で狙いをつけていたときには、一緒に出張していた仲間が二・三歩後ずさりして、私の側から離れていったくらいである。自分でも怪しい姿だとは思ったのだが、そんなことを忘れてしまうくらいに面白かったのである。こんなおもちゃみたいな外見に似合わないほど、これを使うと遠くの音がピンポイントでよく聞こえるのだ。地下街の雑踏の中で遥か向こうで携帯電話で話をしている人に"SonicExplorer"を向けると、私の耳元でささやいているかのように聞こえてくるのである。もちろん、遥か向こうといってもたかだか20mくらいではあるのだが、雑踏の先の20mというのはずいぶんと先に感じる。しかし、"SonicExplorer"の先のパラボラ面は見事にその遠く先の音を集めてくれる。
ところで、遠く離れた人の声はどうして聞き取れないのだろうか?それはもちろん、遠く離れた人の声は小さくしか聞こえなくなって、その人以外が発する雑音に埋もれてしまうからだろう。それでは、人がしゃべる声は距離が離れるとどの程度小さくなるだろうか?
音波が四方八方に等方に拡がっていくとすれば、音の大きさは音の発信源からの距離の二乗に反比例すると考えるのが自然である。つまり、喋っている人からの距離が10倍になれば、その人の声は1/100の大きさでしか聞こえないことになる。20m先で携帯電話で喋る人の声は、1m隣でささやく人の声のわずか1/400の大きさなのである。それでは、雑踏の中で溢れる他の音に埋もれてしまうのは当り前である。
そんな声を聞き取りたい時にはどうしたら良いだろう?そんな時、私達は耳に手を当てて、耳を澄ませる。掌で音を耳に集めて何とか声を聞き取ろうとするのである。それと同じく、この"SonicExplorer"は、先端のパラボラ面で焦点にあるマイクに音を集めて増幅するのである。それでは、"SonicExplorer"は私達の耳に比べてどの程度音を多く集めているだろうか?
そもそも、私の耳の大きさはどの程度だろう?耳はそんなに効率的に音を集めそうな形状をしているわけではなさそうだから、有効な集音面積としては直径1cmの円といったところだろう。それに対してこの"SonicExplorer"のパラボラは直径20cm程だ。ということは、直径にして20倍、面積にして二乗で400倍の面積で音を集めることができるわけである。音を集める程度は音を集める面積に比例するだろうから、"SonicExplorer"を使えば人間の耳の400倍もの鋭さで音を聞き取ることができるわけだ。400倍ということは、つまりは先ほどの「20m先で携帯電話で喋る人の声」と「1m隣でささやく人の声」との違いと同じというわけで、結局のところ"SonicExplorer"を使えば「20m先で携帯電話で喋る人の声」が「1m隣でささやく人の声」であるかのように聞き取ることができる、ということになる。
ここで面白いのは、音が小さくなってく様子は距離の二乗に比例し、音を集める量は集音面のパラボラの直径の同じく二乗に比例するから、n倍遠くの音を元と同じように聞き取りたかったら、集音面の大きさ(長さ)をn倍にしてやれば良い、という単純な関係にあることである。20m先の声を1m横の声と同じように聞き取りたかったら、耳の大きさ(長さ)を20倍にしてやれば良いのである。
そんなことを考えていると、ふと二十年位前のことを思い出した。その頃、私は夏になるといつも長野県の野辺山あるいは川上村というところに滞在していた。その数年前まで、私はその野辺山で暮らしていたのである。そして、野辺山にある45mミリ波望遠鏡の建設が佳境に入った頃だったのだろうか、その頃私の父は半分野辺山で暮らしていた。下の写真は八ヶ岳の麓にあるその45mミリ波望遠鏡である。
http://www.icon.pref.nagano.jp/usr/minamimaki/sawayaka.htm |
そんな二十年位前のある日、父がこんなことを言った。
「45mのアンテナを赤岳(八ヶ岳の最高峰)に向けて、副鏡(焦点)の場所にいると赤岳の上にいる登山客達の話す声がまるで自分のすぐ横にいるかのようにガヤガヤと聞こえてくるんだよ」一体、それは本当だろうか?上の写真を見ても、赤岳(八ヶ岳の最高峰)の山頂は野辺山の45m望遠鏡の位置から遥か彼方に見える。少なくとも、その頃の私からすれば遥か先のずっと遠くに見えていた。今でもそれは同じことだろう。やっぱり遠く彼方に見えると思うし、その山頂でワイワイガヤガヤと話す登山客達の声が聞こえるとは思えない。
そこで、試しに地図で野辺山の45m望遠鏡と赤岳の山頂の距離を確かめてみると、直線距離にして10km程である。下の地図で赤い■の位置辺りが野辺山の45m望遠鏡が建っているところだ。10kmということは、メートルにして一万メートルである。メートルに直したところで、やっぱり遠いことには変わりない。
それでは、先ほどの"Sonic Explorer"と同じように考えてみることにしよう。45m望遠鏡のパラボラ面は人間の耳(ここでも直径1cmとしよう)の45m/1cm= 4500cm / 1cm = 4500倍である。ということは、5000m先、すなわち5km先の音が1mのすぐそばにいる人の声と同じように聞こえるということになる。すると何ということだろう、10km先の八ヶ岳の山頂でワイワイガヤガヤと話す登山客達の声は、すぐ2m横でワイワイガヤガヤと話しているかのように聞こえることになる。もちろん、それは理想的な場合の話ではあるが、先の父の話は結局のところ何の不思議もないごく当り前の話だったわけである。
上の写真のような、八ヶ岳の麓にそびえる白い45m望遠鏡ももちろんかっこいいけれど、私が野辺山に住んでいた頃にはまだその45m望遠鏡は建っていなかった。私がいた頃には、下の写真の中に見える朱色の野辺山太陽電波観測所の野辺山干渉計のパラボラアンテナだけが野辺山の高原に点在していた。野辺山干渉計はもう今では現役ではないけれど、今でもやっぱりイースター島のモアイのように大空に向いているはずだ。私は白く輝く45m望遠鏡も大好きだけど、その横に点在している朱色に塗られた鉄骨で支えられている野辺山太陽電波観測所の野辺山干渉計の方が大好きだ。
http://solar.nro.nao.ac.jp/nori/html/introduction-j.html |
現役を引退した今ではどうなのだか知らないけれど、野辺山太陽電波観測所の野辺山干渉計のパラボラアンテナは太陽電波を捕らえるためのアンテナだったので、いつも太陽の方を向いていた。まるで、巨大な向日葵のように忠実に正確に太陽のある方向にパラボラ面を向けていたのである。だから、太陽が強く照らす晴れた日も、薄暗い雨の日も朱色の鉄塔の上のパラボラアンテナを見れば、太陽の方角はいつも一目瞭然だったのである。
そういえば、私が子供の頃、一時間かけて歩く家から分校までの4キロメートルばかりの道端には、たくさんの月見草が咲いていた。高原の中で高くそびえる赤く巨大な「向日葵」達と、歩く私のすぐ横に咲いている黄色い「月見草」が私はとても大好きだった。
眩しい太陽を追いかける「向日葵」達も、静かに照らす月を見る「月見草」もどこか遠くの声を耳を澄ませて聞いているのだろうかとか、その声をすぐそば近くに感じているのだろうかとか、少し思ってみたりした。
2001-07-14[n年前へ]
■天体観測
富士五合目へ星を見に。家から一時間でこんなにキレイだなんて。スゴイものだ。40cmとなるとどでかい大砲にしか見えません。「黒船が来たのデスカ?ペルリは何処デスカ?」と聞きたくなるくらい。スゴイ、スゴイ。
が、最後には「富士山山頂に望遠鏡を向けて登山者を見たい」と言った私…。