hirax.net::Keywords::「過去」のブログ



2000-09-26[n年前へ]

高鳴る鼓動は何のせい!? 心電図編 

力尽きた時はその時で、笑い飛ばしてよ。


   「人間は生まれた時は自由である。しかし、いたるところで鉄鎖に繋がれている。」といったのはルソーである。確かに、その通りだ。生まれたばかりの赤ちゃんの全裸ヌードは、朝からテレビで放送されているのに、大人の全裸ヌードには必ずと言って良いほどモザイクなどが掛けられてしまうのである。どちらも同じ全裸ヌードにも関わらず、生まれたばかりの時と大きくなってからでずいぶんと扱いが違うのである。「人間は生まれた時には自由なのに、大人になると規制がかかってしまう」のである。ルソーの言った通り、映倫やビデ倫が大人になった人間には規制をかけてくれるのだ。
 

 ところで、少なくとも昔の私はこんな規制が全く不必要であった。といっても、聖人君子のような悟りを開いていたわけではもちろんなくて、それには深い事情があったのである。
 

 高校時代の体育の授業で体操をしていた時のことだ。確か前宙か何かに失敗して私は頭からマットの上に真っ逆さまに落ちた。ちょうど、横溝正史の描く「湖面の上に足だけを付き出した死体」のように私はマットに突っ込んだのである。いや、その時は冗談で無しに一瞬自分が死んだかと思ったくらいだった。「どうせ死ぬならもっと格好良い死に方をさせてくれぇ」と思うくらいのヒドイぶつかり方だった。その時は、ズキ・ズキ・ズキ…と死ぬかと思うほどのヒドイ頭痛に襲われたが、それも結局30分位でなんとか治まったのである。少なくとも、その時には「治まった」と思ったのである。
 

 ところが、その後遺症はすぐに(?)私の目の前に現れたのである。何とも、その後遺症はイヤな再登場をしたのであった。

 深夜TV、いや11PMか何かだったか、とにかく何かのテレビを私が眺めていると、大胆な水着の女性が登場した。私の「血圧も心拍数も心持ちアップ(従来比)」した、と思った瞬間、ズキ・ズキ・ズキ…とあの死ぬかと思ったヒドイ頭痛が再登場したのである。別にアンコールをしたわけでもないのに、勝手に頭痛が再登場したのである。全然大胆な水着の女性を眺める暇なんかもなくて、私はただ頭を抱えて転げ回るだけだった。

 この頭痛はこの一回ポッキリでなくて、私が少しでもエロを感じるたびに再登場した。もうエロビデオ何か見ようなどととしたらもう大変である。映倫のモザイクが登場するより早く、私の頭の中の倫理協会の拒否権が発動されるのである。映像美に私の心臓が「ドキ・ドキ・ドキ…」とときめいたりするとモウ大変、悪さをした孫悟空が三蔵法師に緊箍(きんこ)を小さくされて苦しむように、私も同じく七転八倒しなければならないのである。映倫やビデ倫のモザイクはただ見えないだけであるが、私の心の中の倫理協会は肉体的な制裁まで加えてくれるのであった。真夏のただでさえ暑くて心臓がドキドキしている時なんかに、エロビデオを見ようなんて思ったらもう大変、百発百中病院行きだったのである。

 その後、私は頭痛に苦しめられるたびに病院へ行った。医者はその度「どうしました?」と聞くわけであるが、そう言われても私も困ってしまうのである。まさか、「テレビのエロシーンに興奮したら、ひどい頭痛に襲われました。」などと答えるわけにはいかない。いや、もっとはっきり言ってしまえば「宇宙企画のビデオに興奮して、頭痛に襲われました。」などと言うわけにはいかないのである。

 そんなことを言ったら最後、「宇宙企画のビデオに興奮って、アンタそれでは変態ロリ野郎ですよ。」等と医者に言われかねない。それどころか、「頭痛ってアンタそりゃ、天罰ですよ。ヘッヘッヘ…」などと医者に言われかねないのである。しょうがないので、私は「いや、なんか急にちょっと頭痛がして…」などと体中にダラダラと汗をかきながらウソをつくしかなかった。当然だとは思うが、間違っても

エロビデオに興奮 -> 心臓ドキドキ -> 頭痛ズキズキ
という、うれし・恥ずかしフローチャートを告白するわけにはいかなかったのである。
 

 結局、何回か脳波検査等を受けたりはしたのであるが、結局よく判らないままだった。どんなときに頭痛が起きるかを正直に言わず、ウソばかり喋る患者だったのだからしょうがないかもしれない。それでも、数年の内にいつの間にか直ってしまった。ともあれ、一時は心臓がドキドキと打つ心拍音を気にしながら、11PMを見たりしていたのであるが、いつの間にか堂々心拍数を気にせず見ることができるようになったのである。
 

 そんな過去を思い出したのは夜の仕事場でだった。その時、私はとあるセンサ用の回路をせっせと組み立てていた。その時にBURR-BROWNのINA118という石を使ったのであるが、このデータシートには何とこんな使用回路例が載っていたりするのである。もともと、微小電位増幅用の石だからとても自然な応用回路例ではあるのだが、やはり回路図の中に人間が登場すると何故か笑ってしまう。疲れてハイになっていた私は大笑いすると共に、心電図や脳波検査を受けた昔を思い出したのであった。
 

結構笑えるINA118のデーターシート

http://www.burr-brown.com/WebObjects/BurrBrown/download/
DataSheets/INA118.pdf

 この回路は人間の体の微小電位を増幅して計測してやる回路であるから、この回路を使えば人間の体の電気的な活動を見てやることができる。この手のことが詳しくやりたかったら、やはり「今日の必ずトクする一言」とか「魅惑の似非科学」といったところを眺めると良いと思う。

 ともあれ、かつて私は

エロビデオに興奮 -> 心臓ドキドキ -> 頭痛ズキズキ
という「うれし・恥ずかしフローチャート」に苦しめられていたわけであるが、逆にこの石を使って「心臓ドキドキ」を計測して、逆に「私の興奮度合い」を眺めてやろう、私は決意したのである。そして、私の興奮度合いだけでなくて他の人の興奮度合いも覗きまくろう、と考えた。

 そこで、早速この回路図を元に組み立ててみたのがこの「Heartbeat1000」だ。安定性なんか無視しまくりのブレッドボード使用でそのくせGainは1000倍に変更という、無意味なエアロパーツを付けたヤンキー車のような仕様である。製作時間は本体が15分、さらに電極部分が30分というお手軽装置だ。
 

これが「Heartbeat1000」

 一応、電極部はこんなベルト固定式にしてあるので「誰でも簡単に使える」ようになっている。しかし、このベルトで体に電極を張り付けた状態というのはかなりサイバー(よく言えば)であり、他のもっと正直な言い方で言うとかなりアブナイ状態である。これを付けていると、それだけで受けが取れるのではないかと思えるほどだ。
 

「Heartbeat1000」の電極部

 それでは、早速この電極を胸に張り付けた状態でWEBサーフィンでもしてみることにしよう。自分の興奮度合いが丸見え状態での「うれし・恥ずかしWEBサーフィン」である。

 まずは、自分のWEB「hirax.net」を眺めてみた。その時の「Heartbeat1000」の出力がこんな感じである。これが私の心電図というわけだ。左上の時間・電位レンジを見ると、

横軸が一マス一秒
縦軸が一マス5V
で、心拍が大体一秒間に一回で、その時に「Heartbeat1000」の出力にして5V程度のパルス(ゲインが結構高い)が出ていることが判る。この画面中では、13回心臓がドキドキしている。この画面は十秒間の記録画面であるから、一分当たりに直すと心拍数は78回ということになる。
 
自分のWEBを眺めている時の心電図

 当たり前と言えば当たり前だが、自分のWEBを眺めてもそうそうドキドキはしない。とんでもないミスを見つけたりすると、ものすごくドキドキすることもあるが今回は軽く眺めただけなのでそんなドキドキは幸運ながらなかった。せっかくだから、自分のWEBを眺めて楽しくてドキドキしてみたいものではあるが、不幸なことにそんなことも全くなかった。実に残念なことだ。

 そこで、次にZAKZAK(http://www.zakzak.co.jp/)でスポーツニュースを眺めてみた時の心電図が次の結果である。
 

ZAKZAKでオリンピックニュースを眺めてみた時の心電図

 こちらは、画面中の心拍数が14回であるから、一分に直すと84回である。さっきよりは幾分興奮しているようである。あくまで、ZAKZAKのスポーツニュースであって「ギャル満載」のコーナーでないということは、データの正確さの為にここに宣言しておきたい。

 そして、最後に興奮しそうなスケベサイトということで、かつて一世を風靡し、インターネットの牽引役ともなった(言い過ぎか?)TokyoTopless(http://www.tokyotopless.co.jp/)を眺めてみた
 

Tokyo Toplessを眺めてみた時の心電図

 こちらも、10秒間の心拍数が14回で一分当たりでも同じく84回だ。つまり、私はエロサイトを見ても「心頭滅却し火もまた涼し」状態で、何の興奮もしていないのである。少なくとも、私はZAKZAKのスポーツニュースと同じ程度にしか興奮しないようだ。私は正に聖人君子なのである。さすが、

エロビデオに興奮 -> 心臓ドキドキ -> 頭痛ズキズキ
という「うれし・恥ずかし聖人君子養成ギブス」で何年も鍛えただけある。もう、清廉潔白を絵に描いたような状態である。えっ、何やら「Heartbeat1000」の出力が何か不安定になっているって?どうみても興奮しているって?本当はこのあと興奮しすぎたせいで、データ取得ができなくなったんだろうって? いいじゃないの、そんなことは…
 

 ところで、こんな風にオシロスコープの画面で自分の心臓が動くようす、自分の生きているようすを自分の目で見ているととても不思議な気持ちになる。私が興奮すれば、オシロスコープに描かれていく画面は高鳴る鼓動を見せてくれるし、何かに苦しめばやはり同じようにその変化を見せてくれるだろう。ただ規則正しくパルスを描くオシロスコープの画面を見ながら、色々なことを考えてしまうのだ。もし、このオシロスコープの軌跡が停止したら、どうなるだろうか?その時何を思うだろうか?
 

2000-09-27[n年前へ]

ビールを飲みながら考えたこと 

 ビールの栓を開けてニュースステーションを見ていると、東海村事故の話。JOCの隣・大泉実成…あぁ、少し驚いた。「消えたマンガ家」はとても好きだった。いや、過去形ではなくて今でも、とても好きだ。

2000-09-29[n年前へ]

Remorsus 

或るMail


 



 藤原正彦の「数学者の言葉では」を本棚から引っ張り出して読んでいる。読み直したかったのは冒頭の「学問を志す人へ--- ハナへの手紙」だ。

 この中で藤原正彦は学問(きっとそれは他のものでも同じことだろう)を志す人に対して、情操生活を犠牲にしているという事実を確認し、額に刻印をほどこした上で、学問に打ち込んで欲しい、と語る。そして、それがかけがえなく大切なものを犠牲にして進む人間のぎりぎりの免罪符であって、その免罪符はいつか必ず返すべきものだ、と語る。

 そして、「自分を欺かなければ学問を続けられないなら学問なんか止める」というハナに対して何故か感情的になってしまった過去を振り返りながら、

 ハナからの手紙を手にする度に、私自身の中にある「どうにか眠らせている痛み」を、覚醒してしまいそうな気がした。そんな時にはまず狼狽し、ついで危険を感じ、自衛手段としてハナの態度に憤慨したりした。
と書いている。
 

 この文章をどうしても読み直したかったのには理由がある。私も同じように感情的になってしまったからだ。藤原正彦のような学問のことではないけれど、やはり私にとっては同じような理由で狼狽してしまった。そして、少なくとも冷静に考えてみれば、ひどく間違っているMailを出した。そうはいっても、後悔してももう遅い。もう少しの間、この場所であの免罪符を信じてみることにしよう。
 

2001-02-26[n年前へ]

過去を見る右目と、未来を見る左目と、 

Left Eye


  下の写真は2週間程前に撮ったものだ。同じような二枚の写真が横に並んでいるから、容易にわかると思うが、これもある種の立体写真だ。いつもと同じように平行法で眺めてみれば、ちょっと不思議な感じの立体写真に見えると思う。
 

とある街の風景
(左の写真を左目で、右の写真を右目で眺める)

 これは前回の立体画像とは違って、「異なる場所から撮った二枚の画像」を眺めているわけではない。同じ場所から連写した二枚の写真を、ただ並べてみただけのものである。つまり、「異なる時間から撮った二枚の写真」を左右の目で眺めているのである。つまり、この二枚の写真は右・左の順で撮られているので、この写真を眺めるとき、私たちの右目(righteye)は過去を、そして左目(left eye)は未来を見ていることになる。

 そして、街の景色は変わらないけれど、道を走る車は当然のごとく動いている。だから、車の位置は離れた時間を見ている左右の目には異なって写る。すると、私達は不思議な立体感を感じることになる。時間を立体的に左右の目で眺めることができるのである。

 これまで眺めてきた立体写真は、「空間的に異なる視点から眺めた景色」を左右の目で眺めていた。そんな立体写真では、離れた場所から眺めてみても変わらずに見えるものは背景となって埋没し、離れた場所から眺めたときに姿を変えるものは背景から浮かび上がって見えた。

 今回の二枚の写真は、空間的には同じ場所だけど、時間的には違う場所から眺めているのだから、やはり「異なる視点から撮った写真」に他ならない。だから、この写真を眺めるときに私達は時間を立体的に眺めていることになる。時間が経っても変わらなかったものは、背景となって埋没し、「時間と共に変わっていくもの」が背景から浮かび上がり、あるいは、背景のさらに背後に引っ込んでしまう。そんな景色を眺めるとき、私達は時が流れていくさまを両目で見ることになる。私達の過去を見る右目と、そして未来を見る左目と、私達は同じはずの場所に立っているにも関わらず、その両目から見る景色の違いに驚くのだ。
 

 そんなことは写真だけでなくて、どんなものでも同じことだろう。例えば、言葉だってそうだ。同じようなことを書いているだけなのに、時間が流れているせいなのか、あるいは他の何かのせいなのか、言葉から受ける印象は刻々と変わっていく。同じ言葉を書いていても、読んでいても、時間が経つと共にその言葉の姿は何故か変わる。同じはずの言葉が、姿を変え、意味を変え、違う印象を与える。

 上の写真の中から「変わっていったもの」が背景から浮かび上がり、私達の目の前に飛び出してきたように、言葉の場合も同じ言葉だったはずの言葉が何故か背景から浮かび上がって、私達に迫ってくることになるのかもしれない。何故だかわからないけれど、前回の最後

 のこされたものは、のこされた瞳(left eye)で、のこされた夢を見続ける義務がある、… いや自由がある
を読み直しながら、私はそんなことを考えてみたりした。
 

2001-03-07[n年前へ]

Right Eye & Left Eye 

 あの話で使った写真は本来左右が逆だった。話の展開上、写真の左右を入れ替えたのである。だから、どう考えても日本国内の取手で撮った写真にも関わらず、車が右車線を走ってしまっている。
 ただ、それを書きながら、過去を見るのが右目で未来を見るのが左目にするのか、あるいはその逆にするかはすごく迷った。つまり、「過去を見る目がright eyeつまり正しい目で、残された方の目は未来を見ている」のか、あるいは「未来を見る目が正しい目で、残された方の目が過去を見ている」のか、どっちにしようかすごく迷った。
 どっちなんだろう?



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