hirax.net::Keywords::「希望」のブログ



2010-06-07[n年前へ]

続 「ずっと」も「好き」も、どこにもないから。 

 「通映画批評 > パーマネント野ばら」を読む。

 この美しさの正体が、やがてある残酷さとともに、明らかになる。そのとき、世界のすべてが一変する。町の風景の寂しさは、美しさに変わり、町の人々の滑稽さは、優しさに変わる。時に忘れられたような町は、本当に時が止まっていたのだ。
 パーマネントは「永久」という意味だ。なぜパーマ店の客らが異常に「パーマの強さ」「パーマの永続性」にこだわっていたのか。見終わったとき、その気持がわかって、胸に染み入ってくる。
深く頷く。そして、もしかしたら・・・とふと違うことを連想する。

 人の少ない田舎町を出て、そして、その田舎に戻らない人だからこそ、どこにも存在しない景色を夢見つつ、そして、切ない景色を描き続けることができるのかもしれない。

 この作品のほとんどは、確かにすぐれて叙情的なものばかりだ。しかし、もう一度涙をぬぐって読み直せば、そこに違うものも見える。表面的な美しい抒情の向こうに潜む、西原の恐ろしいほどの絶望と、それから胸の底にわずかにのぞく希望とが、読みとれるだろう。
「ずっと好き」はどこにもないから・・・
好きやずっとなんて、ないことは、 とっくのむかしから知っている。

2010-10-24[n年前へ]

押井守の「たまご」 

 押井守の「たまご」

 (少女は“たまご”をかかえている。彼女は、たまごがかえって、鳥になると信じている)
 “たまごは割ってみなければ、なかになにが入っているかわからない”

 私の好きな(たとえば加納朋子の「掌の中の小鳥」のような)「掌の中にあるもの」とは違うテイストですが、この前後にある言葉を書き写しておきます。

「しかし、たまごを割ってみると、なにもない。これにとまどう人も多いと思うんですが」
「たまごは、言葉を変えていえば、夢とか希望だと思う。それは、今ここにはないもので、可能性として存在しているだけである。しかし、夢とか希望を信じているうちは、人は本当の現実には出あっていないのだと思う」

2011-04-18[n年前へ]

「南国のドラえもん」と「四次元ポケット」 

 一年前、占拠状態の街にいるドラえもんを不思議な心地で眺めていました。たくさんの赤と若干の黒シャツを着た人たちが溢れる占拠地の中心集会所地区で、重要個所を守る警備員も(占拠地帯で占拠を続ける親戚たちと共に遊ぶ)こどもたちも、どちらも同じようにドラえもん銃を持ち、同じように気まぐれに水鉄砲をこっちに向けて、水をピューっと掛けてきたりします。

 灼熱の太陽の下で、熱せられたコンクリートの上に座り込みを続ける人たちをずっと眺めていると、興味深いことに気づきます。地球が回り、太陽が空を動く…その動きにしたがって横断歩道やビルの陰は少しづつ動いていきます。そして、彼らは灼熱の太陽の下ではなくて動くビルの陰の上にいて、少しづつ動く陰と同じように彼らは座り込む場所を動かしていくのです。建物の陰がちょっと動くと、その陰に座る人たちもちょっと座る位置を変えていき、そして数時間も経てば、みな全然違う場所に座りこみをしているのでした。

 街を眺めれば、いたるところにドラえもんがいます。町中に溢れ・人を眺める仏像のように、たくさんのドラえもんたちが人々の中に溢れていました。そのドラえもんを印象深く感じながら、表現する言葉を見つけられないままに、一年経ってしまいました。

 今、あの南国からドラえもんが日本に帰ってきたとしたら、四次元ポケットからどんなものをとり出すのだろう、と考えます。色々なものが現れた後で、四次元ポケットに残ったただひとつのものは、もしかしたら「希望」という名前なのかもしれないとも、ふと思います。

「灼熱の太陽」と「水鉄砲」 「灼熱の太陽」と「水鉄砲」 「灼熱の太陽」と「水鉄砲」 「灼熱の太陽」と「水鉄砲」 






2011-05-06[n年前へ]

「情報」を聞くときにとるべき「姿勢」 

 太平洋戦争から第二次大戦後にかけて、…さまざまことを行った瀬島龍三が語る「内外部からの情報に対すべき姿勢」

  • ①大局(たいきょく)をつかむ
  • ②深く読み、深く聞き、よく叩く
  • ③「希望的観測」と「事実」を識別する
 これら3つのことを行うことができなかった過去を持っていても、私たちは同じことを繰り返してしまうのだろうか。

2011-07-15[n年前へ]

道具と希望 

 もう十数年近くに書いた、たとえば今日の7月15日に書いた「(7/14に書いた)日記」から。(年月日表示の近くにある[n年前へ]というリンクは、そんな過去日記と未来日記を見ることができるリンクです)

「希望は厄難?それとも善?」
「もちろん、善。それ無しじゃ人はいきられない」
「じゃぁ、パチンコ屋で人が見る希望は?」
「それはimbalanceな希望」
「imbalanceな希望は善いもの?」
「希望は厄難?それとも善?」
「希望は道具と同じ」
「道具に善いも悪いもないでしょう?」
散歩の途中で富士山に登った人はいない。
まずは、登ろうと思うことです。
「夢」=睡眠中に生活経験のごとく生起して目覚めると同時にはかなく消える、一種の幻覚。
 誰にでも見ることのできる場所に書いてしまっているということが、私の気持ちをずいぶんと和らげることもあるなぁ、と強く感じてます。
 ”爆乳”女優さんのスカウトにどのくらい時間がかかるものなのかを訊いて聞いてみた。想像していたのは「新宿駅前で丸一日立って、スカウトし続けますよ」といったようなものだった。けれど、想像とはその答えの軸は全然違っていた。
 「明日、○×県に期待している人がいるので、スカウトしに行きます」…答えは「人が集まる場所で何時間スカウトをする」というような時間軸の話ではなかった。東京から数百キロ以上離れた遠くまで、そんな空間軸の向こうにスカウトの相手が一人いるという事実だった。



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