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2005-01-29[n年前へ]

(16才の頃)「知っておきたかったこと」 

(16才の頃)知っておきたかったこと Shiroさんが訳された「知っておきたかったこと」を読んだ。この文章を読んで引用した人と同じように、この文章の内容をできるだけ理解しようと、自分用にメモを取り直してみた。自分が話すなら…、と咀嚼し直さないとなかなかちゃんと読むことができないから、「もし講演が実現していたら…」と考えながら「本文6枚のPowerPointのファイル(PDF版-日本語訳全文はノートとして収録-, HTML, Flash版)」に適当に変えてみる。

 それにしても、16才の頃、同じ高校一年生として同じ高校へ通っていた、つまりは同窓生のShiroさんなどを見ると、「自分は二十年の間に何もできなかったなぁ」とつくづく思う。

人生の到達点はそれまでの積分なんだから、同じアドバイスがどの時点でも有効なはずだ。 やりたいことはたくさんある。それなら、絶対後悔しないから、貪欲に、遠慮せずにやればいい
という氏の言葉を頼りに、(二十週遅れの高校一年生気分で)この講演に(頭の中で)耳を傾けてみることにしようか。

2005-02-19[n年前へ]

『○×的センス』と「素晴らしい科学」 

理研ニュースJanuary 2005 ちゃろん日記(仮)文体で遊んだときには、寺田寅彦の文章などを比較例に使ってみました。寺田寅彦と言えば、椿の花が落下するようすを描いた「思い出草(やこの件に関する科学論文)」が理研の庭の椿の花を実験材料にしていることは有名かもしれません。その理研が発行している 理研ニュース'05/1の河合隼雄・野依良治特集対談がとても面白く楽しめます。対談の中から、気になる一節をメモし始めると…、全文になってしまいそうですね。

「科学」と「論理」と「情緒」と「言葉(数式と日常語)」

(野依)自然科学者として、文化には4つの大きな要素があると思っています。ひとつは“科学”、それから“論理”、3番目が“情緒”、最後に“言葉”だろう…(河合)言葉の中で、一番はっきりしているのが数式なんですよね。日常語は、あいまいさを持っていますから、サイエンス(科学)はそれをできるだけ排除しようとする。できたことを説明し、記述する場合は数式といったものが強いのですが、新しいものを見つけていくときには、あいまいさの中に入っていかないと駄目なんです。
「理系」と「文系」
(野依)日本の教育では比較的若いときから理科系・文科系を分けますが、私は亡国への道だと思っているのです。(河合)私も絶対に反対です。高等学校くらいの年齢で理科系・文科系なんていうのは、本当におかしいと思います。
「人を疲れさせない・駄目にしない」
(野依)研究所も大学もそうですけれども、研究を通して人を育てることが大事であって、人を疲弊させてはいけないと思うんです。しかし今の研究所では、評価とか資金調達とかいろいろなものが導入されて、人を疲れさせています。これは研究者だけではなくて、事務方にもいえるわけですが。そういった研究所の職員をエンカレッジ(激励)するには、研究所全体の文化度を上げなければならないと思っています。さもなければ人間が駄目になります。
「素晴らしい科学というのは、わかりやすい」
(野依)社会に自分たちがやっていることの意義を分かりやすく話すということは、大変大きな意味があると思います。素晴らしい科学というのは、やはり分かりやすいんです。

2005-04-03[n年前へ]

文字(文章)デザイン 

void GraphicWizardsLair( void ); // 「カナ入力と半角文化」が面白い。「コンピュータ関係の英単語を全角アルファベットって…」というような話から始まるエトセトラ、である。一連の文章を読んで、技術系の人にとって数少ない「文章の書き方」の教育の機会が「論文書き」なんだぁ、とふと感じた。

 ところで、現在のところの私自身は、次のような使い方をしている。

  アルファベット → 全角は使わない
     現在のところ、そういう使い方をすると
     読みづらいことが多い。

  日本語の中の英単語 → スペースを両端に入れておく
     見やすいし、問題も起きづらい

  日本語内の"()" → 全角は使わない
     "()"を使うと、間隔が広すぎて読みにくい。

  日本語内の"?, !" → 全角を使う
     "?!"を使うと、日本語文字と組み合わせた時に、
     バランスが悪く読みづらい

  WEB上の文章では"、「」"を多くする。
     WEBの文章を表示するデバイスは読みづらい。
     その読みづらさを何らかの作業で補う

判断基準は、「表示されたものを(内部コードの話ではなく)、自分がその文章を読むときの読みやすさ」である。ちなみに、私は「読む側が少しでも読みにくいと感じる=読者にとって(書き手にとっても)支障が大いにある」だと考えている。だから、「大した支障はないよね。どっちでも良いよね」と割り切ることはできずに、こだわりを持つ人が多いのも当然だとも思う。そういう(人によって異なる)こだわりは、人によって異なる)「伝えやすくしようとする意図の現れなのかもしれない。

 コメント欄中の

新聞のような縦組だと、全角大文字ローマ字が相性いいですね。
には、「なるほどね」と、とても納得。

2005-06-03[n年前へ]

数学とソフトウエア 

マスオ博士の気ままに数学数学とソフトウエア 「数学とソフトウェア」は、教育用の資料がとても大量に提供されている。「数学大好き」というわけでなくても、結構楽しめる。何ていったって、「マスオ博士の気ままに数学」なんていうコーナーもあるくらいだし。
 ライフゲーム・暗号・折り紙・フラクタルなんていう言葉に惹かれる人は「数学のかたち」を読むと、嬉しくなるかも。

2005-08-31[n年前へ]

「毎日かあさん」論争 

「毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 『「毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か 』 「教育的配慮」という言葉の意味・用法も使う団体・人それぞれなのかも。

 何かを表現すれば、どこかにその言葉で傷ついたりする人はいる。もちろん、それを意識しないことは今ひとつ気持ちよくないかも、とも思う。西原理恵子の希有な才能と作品を読みたいファンとしては、「配慮」という言葉のもとに、何も表現しないのは何だかとてもツマラナイとも思う。



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